『死が二人を別つまで』(ルース・レンデル/創元推理文庫)

死が二人を別つまで ウェクスフォード警部シリーズ (創元推理文庫)

死が二人を別つまで ウェクスフォード警部シリーズ (創元推理文庫)


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「この国を自由の国だと言うのは勝手だけど」
「そう言ってる人間たちだって、みんなが意識の底に、”労働者階級”と”犯罪者階級”とは多かれ少なかれおなじようなものだという感覚を持っていることは知っているはずだ」
(本書p243より)

 本書はルース・レンデルのウェクスフォード警部シリーズの2作目に当たりますが、ウェクスフォードが主人公ではありません。十六年前に起きた殺人事件。彼が警官になって始めて担当した殺人事件ながら絶対の自信をもって解決し、その犯人は死刑になりました。その事件に対して、真っ向から疑問を投げかける人物が現れます。それが牧師のアーチェリーです。彼がなぜ十六年前の殺人事件を調べなおす理由は、アーチェリーの息子チャールズの結婚話に端を発しています。息子の婚約者であるテリーサが十六年前の殺人犯の娘だと聞かされたからです。
 チャールズはもとよりアーチェリーの目から見ても、テリーサはとても気立ての良い娘です。しかしながら殺人犯の子供です。殺人犯の子供は殺人犯になるのではないか。偏見は遺伝という知識によって強化されます。ましてやアーチェリーは牧師です。彼と教会を訪れる信者にとって、殺人は許し難い罪です。その一方で、子供の性格を決めるのは遺伝ではなく環境だという考えもあります。実際、テリーサの養父は彼女の身の回りにとても気をつかってきました。環境が大事だとすれば、殺人犯の子供は殺人犯という偏見そのものが殺人犯を生み出すことにつながります。アーチェリーはテリーサをとてもいい娘だと思っています。それでも、自分の娘が殺人犯の娘と結婚することが我慢できません。そこで、十六年前の事件を息子のチャールズとともに調べなおすことにしました。
 本書を通常のミステリとして期待して読むと肩透かしの感は否めません。なぜなら、論理的な思考とかは一切必要とされることなく解決がなされるからです。しかし、だからといってミステリとしての読みどころがまったくないのかといえば、そんなことはありません。真実を求める探偵役の思考と行動は、常識や偏見、固定観念とぶつかってそれを打ち破ります。それもまたミステリを読む上での楽しみのひとつです。本書にはそれがあります。自身と世間とが抱く偏見を意識すること。そして、自分自身の価値観を見出すこと。彼らの行動によって導き出される真相は、論理的な思索の果てに生み出されるものではありません。それでも、この結論は彼の推理によってあばかれることが求められていたのです。真実は探し出すものですが、その一方で、創り出すものでもあります。神に仕える身であるアーチェリーにとっては重い物語です。だからこそ、そこにある救いをご都合主義として捉えらることはできません。
 偏見という意味では、本書のような警官と素人探偵の対決という構図だと、ミステリ読みならどうしても思い描いてしまうパターンというのがありますが、そうしたメタ的な思考パターンに対して、本書はその裏を行っています。だからこそ、論理的な魅力に欠けるのは確かなのですが真相そのものはとても面白いものとして受け取れます。虚と実では割り切れないちょっとしたロジックが楽しいです。
 本書の原題は「A New Lease of Death」。都筑道夫の解説にもあるとおり、直訳すれば「死者の影響力」とでもなるのでしょうが、とても訳しにくいタイトルです。それを、愛し合う若者の結婚がかかっているということもあってか邦題は「死が二人を別つまで」とされているわけですが、とても気の利いた訳だと思います。