『学校の殺人』(ジェームズ・ヒルトン/創元推理文庫)

「常識のある人間なら、わしの見るところでは、たとえ刑事であろうとなかろうと、わしに許可を求めるのが礼儀だと思うよ。わしにその権利があるくらいのことは知っているはずだがね。レヴェル君、こんどその刑事に会ったら、だれの許可を得て私有権を犯してまで密偵を校内に入れたかぜひうかがいたい、そうわしがいっていたと伝えてくれたまえ! 公私のいろいろな権利を侵害するなんて、まったく恥知らずもはなはだしいよ!」
(本書p128より)

 誰がどうやって殺人を犯したのか? 真相を隠すための陥穽として真っ先に立ちはだかるのはトリックです。物理的なものにしろ心理的なものにしろ、トリックがその謎の中核となります。それを晴らすためには入念な捜査が欠かせませんが、そこに立ちはだかるのが社会的な障害です。雪の山荘や嵐の孤島というような物理的なものではなく、社会的に閉鎖された状況下での殺人事件。そこでは、その社会の中での秩序を維持しようとする力学が働いて、それがときに殺人事件の捜査と対立することがままあります。そうした対立から内部に潜む病理や人間関係の苦悩などが浮き彫りになって、物語に奥行きや深さといったものが生まれることになります。”社会派”といわれるミステリの醍醐味がここにあります。
 本書は『チップス先生さようなら』などで知られるヒルトンが書いた唯一の長編古典ミステリですが、タイトルどおりに学校の中で起きた殺人事件は、警察が自由に介入することのできない社会的に排他的な状況として捜査の進展を阻みます。もっとも、本書の場合は学校という空間が社会的なクローズド・サークルとしての機能を果たしているのみで、せっかくの学校という舞台が生かしきれていなくて社会派的な踏み込みには乏しいのが勿体無いと思わなくもないです(ちなみに、本書の更なる発展形としては、ディヴァイン『悪魔はすぐそこに』などがオススメです)。その辺、日本における社会派ミステリの発展には目を見張るべきものがあると思います。
 ただし、そうした社会的なクローズド・サークルというものが一種のトリックとしてだけでなくて真相の解明にも深く関わっている点には注目しなくてはなりません。ネタバレになってしまうので詳しいことはいえないのですが、とりあえず目次を見てみても、「推理から推理へ」とか「第三の(そして最後の)探偵登場」といった実に興味深い章題が並んでいます。(ネタバレ伏字→)ミステリにおけるお約束、特に探偵という役割について否応なしに考えさせられる上質のメタ(ここでのメタは、お約束を逆手にとっているという意味でのメタです。)ミステリに仕上がっています。(←ここまで)いや、この展開には驚きました。
 レヴェルという「探偵の才ある詩人」が主人公を務めているのもとても面白いです。いや、物語が始まると探偵ばかりしていて詩人としての役割をあまり果たしてないのが少々惜しくはあるのですが(笑)、でも詩で始まり詩で終わるところが、そこはかとなく論理というものの抽象性というものを浮かび上がらせているようで趣き深いです。古典なだけに死因や物証の認定に甘さがあって納得がいかない部分はあるのですが、しかしながら本書の仕掛けには一読の価値があります。まったくの初心者にはオススメできませんが、そこそこミステリを読まれた方にならきっと喜んでいただけるのではないかと思います。