『この人を見よ』(マイクル・ムアコック/ハヤカワ文庫)

この人を見よ (ハヤカワ文庫 SF 444)

この人を見よ (ハヤカワ文庫 SF 444)


絶版本を投票で復刊!

「どうしてぼくは、いろんな人に対していろんな人間になるんだろう、ジェラード? ぼくは自分が何者なのか、まるでわからないよ。ああした人間のうち、どれがぼくなんだろう、ジェラード? いったいぼくのどこがおかしいんだろう?」
「多分きみはほんの少しばかり、人を喜ばせようとしすぎるんじゃないか、カール」
(本書p100より)

 ムアコックといえば、『エルリック・サーガ』をはじめとする『エターナル・チャンピオン』シリーズの作品群で知られていますが、本書はそれに属さない(多分)ノン・シリーズものです。ただ、確かにノン・シリーズものではありますが、『エターナル・チャンピオン』の骨子である平行世界(多世界解釈)の考えは本書からも垣間見えます。ムアコックのファンにとっては興味深いことじゃないかと思います。
 そもそも中編として発表されたものが長編化されたのが本作となりますが、その中編が1967年にネビュラ賞(中編部門)を受賞した際にロジャー・ゼラズニイは次のように述べたそうです。

「この小説を初めて読んだ時、あなたが敬虔なクリスチャンなら、冒涜的で不敬な作品だと感ずるかも知れない。またあなたが無神論者なら、著者は死んだ犬をけとばしているのだと思うかも知れない。ただ、いずれの印象も誤りである。もっとよく作品を味わってほしい。この作品は。それに値するだけのものを持っている」
(本書巻末の訳者あとがきp259より)

 冒涜的というのは分かります。私自身、正直そうしたところを楽しみながら読みました。いやー、面白かったです(笑)。でもでも、決してそれだけで終わってはいけないのもまた確かです。
 本書の主人公カール・グロガウアーは複雑な幼少期を過ごしてきました。親の愛を得られず、学校ではいじめにあい、女の子たちには避けられて、牧師からは同性愛の洗礼をうけます。そんな彼は長じて心理学(特にユング)に関心を持ち、女性に溺れ、宗教にとりつかれます。キリスト教とはいったい何なのか? イエスという現実とキリストという概念の果たしてどちらが先に存在していたのか? それは彼にとっての自我の問題と直結したものです。わたしは誰なのか? わたしは何者なのか? わたしはどこにいるのか? 本書は三人称視点を基本としつつ時折一人称視点が混ざる形式となっています。”彼”があるから”わたし”があるのか? ”わたし”があるから”彼”があるのか? こうした語りの形式は本書のテーマを象徴するものとなっています。
 過去に旅行することのできる未完成のタイムマシンと出会ったカールは、キリストの最期を見届けることを希求します。それから先の展開は大方の読者の予想通りのものとなります(っていうか、カールの過去と現在は並行する形で語られるのですが)。ノイローゼにかかった精神科医のなり損ない。意味を求める人。マゾヒスト。自殺未遂の常習者にして救世主コンプレックスの持ち主。そんな困ったちゃんが少しずつイエス・キリストの人生・歴史に飲み込まれていきます。果たしてそれは真実なのか? それとも虚構なのか? それは誰にも分かりません。SF的に言えば、タイムパラドクス(歴史改変)を防ぐための歴史の自浄作用などと説明されるのかもしれません。しかしながら、本書の場合にはそうした理解は不適切です。不可知論者から神への転落。わたしは誰なのか? 神はどこにいるのか? 本書で示される結末は意外でも何でもありません。しかしながら圧倒されます。
 宗教というものにムアコックが真っ向から取り組んだ作品としてファンには一読をオススメしたいですが、そうでない方にも是非読んでほしい逸品です。