『私家版』(ジャン=ジャック・フィシュテル/創元推理文庫)

私家版 (創元推理文庫)

私家版 (創元推理文庫)

 1994年のフランス推理小説大賞受賞作です。
 「本が人を殺す」が本書の謳い文句ですが、魔術的・呪術的なものでもなければ、あるいは「本で殴る」というような物理的な殺害方法でもありません。「本」によって生活している人がいます。そうした人たちにとって「本」という存在は凶器となり得ます。そんな狂気が描かれています。
 訳者あとがきによれば、「アジャール事件」という実際に起きた事件が本書執筆のきっかけになっています。ロマン・ガリという作家がフランス文学における権威ある賞、ゴングール賞の二度目の受賞を果たしました。一度しか受賞できない賞をどのように受賞したかといえば、「エミール・アジャール」という偽名を用いて受賞作を発表したからです。フランス文壇を騒がせたこの事件から、著者フィシュテルは、批評家が文学作品そのものではなく作家名によって作品を批評する傾向があることを知ります。たとえ作品そのものが受賞に値するものであったとしても、作家に受賞資格がないと作品の評価が否定されてしまうという現象を前に、そこからフィシュテルはそうした現象を鏡写しにした着想を得ます。すなわち、作品による作家殺しです。
 現実の事件を鏡写しにしたフィクション。その中で行なわれる”犯罪”もまた鏡写しです。出版社社長エドワード・ラムにとって、作家二コラ・フィブリはまさに自分の分身のような存在です。二人は青春時代から文学を通じて親密に付き合ってきました。美男のニコラに地味なエドワード。二コラが書いた作品を、エドワードは影ながら直して出版してきました。それによって二コラは名声を手にしました。そんなニコラの影としての人生にエドワードは甘んじてきました。ニコラが過去におけるある事件をモチーフにした小説を書くまでは。その小説は確かに素晴らしいものでした。しかし、そこで描かれている主人公と女性との密事が、エドワードには我慢がなりませんでした。彼はニコラを”殺害”することを決意します。本書は、通常のミステリとは異なり、犯人の視点から描かれています。いわゆる倒叙ミステリです。これもまた手法における鏡写しといえるでしょう。
 ニコラが書いた作品を元に、エドワードは凶器となる「本」の製作にとりかかります。これもまた鏡写しです。この過程は、極めて奇妙な殺害方法の描写であるとともに、一冊の本が出来上がるまでの過程としても実に興味深いです。こうして作られた「本」による殺人。正直、好条件が揃い過ぎててそこはどうかと思うのですが、条件がカチッと音を立てて嵌っていく感覚が楽しめるのでそれほど悪い気はしません。ホントによく計算されていると思います。
 物語の冒頭、ニコラの書いた作品がゴンクール賞受賞前の緊張と受賞直後のお祭り騒ぎは、まるで日本の芥川賞直木賞を彷彿とさせるものがあります。そんな幸福の絶頂からの転落。嫉妬と憎悪というのは一般論としての犯行動機としては納得できますが、本書のようなケースでまで殺意を覚えられたらたまったもんじゃないなぁというのが正直な気持ちです(笑)。ただ、そもそも作者が歴史学の教授ということもあってか、フランスの現代史とニコラのモデルであるロマン・ガリの人生とが、作中に巧みに取り込まれています。それによって、二人が出会ってから現在に至るまでの人生が実に説得力のあるものとなっています。そうした背景があるために、本書で行なわれる技巧的な犯行にも真実味が生まれてきます。
 本書で試みられている殺人方法を行なうのは実際には無理でしょう。しかし、本書に描かれているものと似たような原因が作家を「殺害(あるいは自殺)」してしまうようなケースは十分考えられます。それだけに、「本」に興味のある方には幅広く読んでいただきたい一冊です。
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