『炎の門』(スティーヴン・プレスフィールド/文春文庫)

炎の門―小説テルモピュライの戦い (文春文庫)

炎の門―小説テルモピュライの戦い (文春文庫)


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 清水義範の短編に『私は作中の人物である』という作品があります。干からびたミミズの死骸を語り手とすることで、小説における語り手としての”私”とはいったい何なのかを問い直す実験的な小説です。

 というわけで、『オデュッセイア』のように冒頭に、この話は神が語った、とは断ってないにしても、古典的な物語というのは作者が神のように何でもお見通しの立場で語っていた。
 しかし、だんだんとそれでは、作者が何を言ってもよくて、運命をもてあそんでゲームをしているだけのようなものではないか、という反省が起こってくる。物語をもっと客観的に語れないものか、と考える。
 そこで、いろんな手が考え出される。たとえば、小説を手記や、日記や、手紙で書くなんていう手法。
(中略)
 ところが、小説がだんだんそういう複雑さを追い求めていくと、ついには小説の構造をぶち壊してやれ、というところまで来る。ヌーヴォ・ロマンとか、アンチ・ロマンというのがその代表例で、そこには物語るような話はひとつもなかった、ということを原稿用紙千枚も物語ったり、主人公のこの窮状は作者がそういうふうに書いたせいで起こった、と書いたりするのである。
 つまり、物語であることを拒否する物語、というようなものまで現代文学は生み出している。古典的な、神のような作者がすべてを教えてくれる無邪気な小説では飽きたらなくなっているのだ。
『私は作中の人物である』(清水義範/中公文庫)p14〜16より

 作者や神といった高みからの視点よりも、手記や手紙といった作中の個人の視点に限定することによって主観的になるはずのものがむしろ客観的なものになる、という指摘は、矛盾のようでありながらとても面白いですし考えさせられるものがあります。
【関連】三人称視点の語り手は誰?
 本書『炎の門』は、紀元前480年にペルシア軍とギリシア軍との間で行なわれたテルモピュライの戦いを描いた物語です。一説によれば、わずか三百人のスパルタ兵がペルシアの二百万ともいわれる大軍を七日にわたり食い止めたとされる戦いです(参考:Wikipedia)。本書では、とても複雑な語りの手法が用いられています。テルモピュライの戦いに参加し、凄絶な戦いに敗れペルシア軍の捕虜となったスパルタ兵の従者クセオネス(クセオ)が、ペルシアの王・クセルクセス大王に命じられ、自らの経験したテルモピュライの戦いを大王に語り、その口述を歴史家のゴバルテスが記録し、その記録を読者たる私たちが読む、という形式による語りです。本書が歴史上実際に起きた戦いの物語であり、その結末に至るまで何らの改変も加えられていないことが、物語の冒頭で読者には提示されます。その上で選ばれた本書における複雑な語りの形式の持つ意味はいったい何でしょう?

どの声も忠義を誓い、どの心も愛を広言する。聞き手たる余はさながら市場の物売りを相手にするかのように、かすかな背信と欺瞞の兆候も見逃すまいと、つねに探り、糾さねばならぬ。ああ、なんと退屈なことよ。
(中略)
しかし、わがまえにぬかずくすべての者のなかで唯一、欲望やおのれの利益からではなく口をきく者がいる。それがかのギリシア人じゃ。そなたはまだあの男の心を理解しておらぬな、マルドニオス。彼の願いはただひとつ、冥界の戦友らとふたたびあいまみえることだけなのだ。彼らの物語を語りたいとの情熱さえ、その願いの強さには及ばぬ。物語は彼の信じる神から課せられた義務であり、彼にとっては重荷、災難でさえあるのだ。彼は余に何も求めてはおらぬ。
(本書p313〜314より)

 上記の引用文はクセオの口述を聞いているクセルクセス大王の言葉です。神である王にとって、神からの言葉などに何の意味もありません。真実の人間の物語こそが彼の欲するものなのです。
 本書は全八章の構成となっていますが、その章題は、「巻一 クセルクセス」「巻二 アレクサンドロス」「巻三 雄鶏」「巻四 アレテ」「巻五 ポリュニケス」「巻六 ディエネケス」「巻七 レオニダス」、そして最後の章「巻八 テルモピュライ」と、終章を除き、すべて作中の登場人物の名前によって章題が付けられています。これは、本書が歴史上の有名な出来事を題材にした物語であるからこそ、後世という高みの視点からの歴史小説ではなく、当時を生きた人間に思いを馳せた物語を書きたかったという作者の思いの表れでしょう。それほどまでに、本書では一人の子供がスパルタ兵となりそして死んでいくまでの生き様がものすごく濃密に描かれています。
 三百対二百万(この数字には基礎資料によってかなりの差が生じます)とも伝えられる少数と大多数の戦いを描いた本書は、何よりスパルタ軍の強さの秘密がその焦点となります。いわゆる「スパルタ式教育」といわれるものです。スパルタの兵は、他国の多くの兵とは異なり兼業の職を持ちません。兵として生き、兵として死ぬことを教えられます。そして、肉体的にも精神的にも厳しく鍛えられていきます。この鍛錬はとても過酷なものです。訓練に耐え切れずに死んでしまうものいますし、死ぬまでには至らなくともその後の生活に支障が生じるような怪我を負ってしまうことも珍しくありません。もちろん、そうした鍛錬を苦もなく乗り越える優れた資質を持った者もいますが、大多数の兵士は鍛錬によって傷付き倒れていきます。
 一兵士の強化という観点からすると、こうした鍛錬は明らかに行き過ぎです。しかしながら、スパルタのこうした鍛錬の本質は、個人を一兵士として強くするためのものではありません。集団の中にあって仲間と共に戦えるための兵士を育て上げることにその本質があります。その鍛錬によって、たとえその兵士の個人的な力が減ぜられることになろうとも、集団の中で力を発揮することができるのであれば、それはまさに一人前のスパルタの兵士なのです。全体のための個であり、自らが属する全体に対して誇りを持つことによって、個としての誇りへとフィードバックされていきます。それが、スパルタ兵の強さの本質です。したがいまして、主人公クセオを始めとするスパルタ兵たちの訓練の描写でも、単に個人が鍛えられていく過程のみならず、兵士同士の関係性といったものがとても丁寧に描かれています。特に、スパルタ兵とその従者の関係はとても重要で緊密なものです。その心情の交わりの機微たるや、「マリみて」のスールを彷彿とさせるものすらあります(古代スパルタにスール制の原点を見た!・嘘だけど)。もっとも、マリみてだとネクタイが曲がっていたら「タイが曲がっていてよ」と優しく直してあげるところ、スパルタだと盾が曲がっていたら「君がッ 盾を直すまで 殴るのをやめないッ!」って感じですけどね(笑)。
 クセオを始めとするスパルタの兵士たちは、確かに少数をもって多数に立ち向かいました。しかしながら、彼ら一人一人が兵士として超人的な技量を有していたわけではないのは上述のとおりですが、精神的にも、彼らは決して死者ではありません。恐怖は常に彼らの中にあります。
「恐怖の対義語は何か?」
 本書における重要な問い掛けです。勇敢に見える行為であっても、それを支えているのは実は勇気ではなく、不名誉な行動をとってしまうことで仲間から罵倒されることへの恐怖によるものではないか? それでは恐怖を乗り越えたことにはならない。では、恐怖の対義語はいったい何なのか。
 本書は、テルモピュライの戦いに赴く戦士たちの姿を克明に描いています。彼らが死や恐怖というものを感じていないわけではありません。むしろ誰よりもそうしたものに敏感です。生命の価値も知っています。そうした葛藤や矛盾に立ち向かい乗り越えていく彼らの姿は、確かに美しいのです。しかし、その美しさは余分なものがそぎ落とされることによって生じる美、一種の機能美でもあります。人間として失ってはならないものを自覚的に失うことによって新たに得られるものを、彼らは戦場と仲間の存在によって感得し、受け入れていくのです。彼らはスパルタ兵である自分に誇りを持っていますし、その姿には心を打たれます。
 そうした美学が真摯に描かれる一方で、本書は戦いそのものを単純に賛美することはしていません。悲惨な戦場(本書の淡々とした残酷描写は特筆ものです。食事時に読んでは絶対にいけません)、残されたものの悲しみ、戦地に散った若者たちから失われた未来。そうしたものも丹念に描かれています。その役割を担っているのが女性です。三百人の精鋭による戦いが圧倒的な密度で描かれた後で、その三百人が選ばれた真の理由が明らかにされます。その真実こそ、まさに本書が伝えようとしているものなのです。
 本書では、スパルタが歴史上、というより伝説的な名を残すことになったテルモピュライの戦いの惨状が、一兵士という狭く低い視点を通じて、しかしながら圧倒的なスケールで描かれています。血や肉、排泄物や粘液によって大地が汚泥となっていく酸鼻な情景が描かれつつも、そこには人を惹きつける何かがあるのもまた事実です。戦略と戦術の限りを尽くし、刀折れ矢尽きるまで戦い奮闘する彼らの姿は確かにかっこいいです。でも、恐ろしいです。感動の一言では言い表せない複雑な読後感が味わえた一冊としてオススメです。