城平京『スパイラル エリアス・ザウエルの人喰いピアノ』エニックス

 漫画『スパイラル』のノベライズ3冊目です。
 地中海から引き上げられ、その持ち主たちを殺してきたという由来がある、エリアス・ザウエルの人喰いピアノ。主人公・鳴海歩はこの呪いを解けるのか?というお話です。
 これまで紹介してきた2冊と同じように原作を知らなくても楽しめる推理小説ですが、今回はうってかわって怪奇、それこそミステリ風の導入になります。
 漫画のノベライズの特色の一つとして、「漫画の世界が舞台」ということが挙げられると思います。
 「なに言ってるの、当たり前じゃん」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実はこの前提条件は小説(特に推理小説)では結構重要かつイレギュラーでして、なにしろ「漫画の世界」は「現実の世界」と違って「なんでもあり」が当たり前の世界なのです。当然例外は多々ありますが、基本的には「現実の世界」と異なった物理法則が用いられても「漫画の世界」ならば許されます*1。顕著なのはギャグマンガでしょう。死にそうな目にあったり実際死んだキャラクタが翌週にはケロッとした顔で登場したり、何年も同じ学年を繰り返したりします。大塚英志いうところの「まんが・アニメ的リアリズム」とちょっとずれるかもしれませんが、少なくとも漫画であれば「現実世界のルールとは多少異なっても気にしない」という読み手の意識が構築されていると思います。
 一方で、現実の世界を舞台にした小説では「現実のルール」が厳格に適用されます。特に推理小説のトリックは物理的なものが大半ですので、「光の速さを越える弾が出る銃で殺人」とか「超能力で殺人」など書くと、そりゃあ、まあ、えらいことになります。もちろん「SFミステリ」というジャンルがあるように、現実世界のルール以外のルールが適用される物語世界も登場します。身近なものでは西澤保彦の『チョーモンイン』シリーズ。この世界では「超能力」という現象が存在する世界として描かれています。しかしながら登場する超常現象(現実の物理法則に従わない現象)には明確に「ルール」が定められ、これが覆ることは(まず)ありません。「ルール外」の存在にもきちんと「ルール」が定められているのです。
 当然ながら漫画の世界にもある程度の「ルール」はありますが、非常にファジィであり、作中でルールが明確化されることはほとんどないかと思います。
 翻って、今作のように「漫画の世界」を「推理小説」としてノベライズするというのは非常に困難を伴います。ある意味、「ルールの明示されていない世界」で「ルールのある」小説を書くわけですから。
 しかしながら、逆に考えると、「漫画の世界」ということを逆手にとって読者に「驚き」を与えることが出来るわけです。
 「現実の世界」を舞台にした際には犯人や犯行方法を読者が予想するにあたり、「現実のルール」を考え方の軸にします。「幽霊はいない」「超能力は存在しない」などなど。予想をA、B、Cと立て、結果がDであれば読者は「なるほど、そうだったのか!」と良い意味で読者の期待を裏切り、読者はカタルシスを得ます。これが例えば結果がα(アルファベットではない)であった場合、読者が「悪い意味で」期待が裏切られ、場合によっては「アンフェア」扱いするのかと思われます。
 一方、「漫画の世界」は基本的に何でもありですので、あらかじめ読者に「Aかな?Bかな?場合によってはアルファベット(現実のルール)だけでなくα(現実のルール外の現象)もあるかも?」と予想の幅を広げ、ぶれさせることが出来るのです。
 本作の結果がアルファベット(現実のルール)なのか、ギリシャ文字(現実のルール外)なのかは読者の楽しみにとって置くとしまして、「漫画の世界」を書く「推理小説」ということについて考えさせられる一作でした。
【関連】『スパイラル ソードマスターの犯罪』
    『スパイラル 鋼鉄番長の密室』
    『スパイラル 幸福の終わり、終わりの幸福』


 余談その1。『京極堂シリーズ』の凄さの一つとして、読者を一旦「現実外の世界(妖怪の存在する世界)」にパラダイムシフトさせたあと、「現実の世界」に再度パラダイムシフトさせることというのもあるのかなぁ、と思いました。
 余談その2。上記のように「現実の世界」と「現実ではない世界」に揺さぶられたい方には、加納朋子『沙羅は和子の名を呼ぶ』をオススメします。優しくも切ない、不思議なお話が書かれた短編集ですが、「このお話は「現実」と「非現実」どちらなのだろう?」というドキドキ感と驚きを満喫することが出来ます。
文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

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沙羅は和子の名を呼ぶ (集英社文庫)

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*1:たぶん