『アルキメデスは手を汚さない』(小峰元/講談社文庫)

 2006年に復刊という形で発行された本書ですが、そもそもは1973年に第19回江戸川乱歩賞受賞によって刊行されて、その1年後には文庫化されました。刊行から1年で文庫化というのは異例のスピードでしょうし、そのことからも本書が当時大変な人気を博したことが伺えると思います。私は生まれてもいない時のことなのでよく分からないのですが、かなりのベストセラーだったみたいです。
 著者自身の言葉によれば、本書で著者が描きたかったのは”ヤング悪漢”です。1970年代の言語センスなのでダサいと思いますが(笑)、それこそが本書の本質で、殺人事件や毒殺未遂事件の真相、アリバイトリックといった本格ミステリ的な要素を上回る魅力となっています。あさま山荘事件(→Wikipedia)を始めとする学生闘争以降の新たな反体制的な思考・生き方が表現されているのが本書で、だからこそ刊行当時から強い支持を受けたということだと思います。

「いまに君が高校生の息子を持つようになったら判るさ。やつらが何を考えているやら、俺たちには見当もつかない。毎日の新聞を見てみろ。やつらのやることに俺たちは度肝を抜かれっ放しだ。ところが、やつらは俺たちの考えそうなことは先刻見通してるんだ。そんな時代なんだよ、現代は」
(本書p285より)

 知らぬは大人ばかりなり。世代間の断絶といったものはいつの世も変わらぬものでしょうが、所詮は下の世代は上の世代によって支配されている世界だということには変わりないでしょう。ところが、知識・知能の面からすれば高校生というのは立派な大人です。そうした高校生は大人たち社会の価値観を把握しきってます。そこに自分たちの独自のルール・価値観を作って、法の合間を縫いつつ戦いを挑むことはできないのか? まさに日本赤軍の武力闘争の成れの果てを見たからこその発想ということになるのでしょう。そうした発想によって作られたルールは、概念上は上の世代のルールよりもさらに上に位置するメタなものです。だからこそ大人たちは理解できませんが、理解できるようになったときにはまた次の若者たちによるメタ・ルールが立ちはだかることでしょう。桜庭一樹『赤朽葉家の伝説(書評)』の第二部でも、この時代の高校生による知能犯的組織化というのものが描かれてますし、本書で描かれている高校生たちというのもそれなりにリアリティのあるものだと考えてよいと思うのです。
 本書の影響を個人的に強く感じたのが、最近まとめて見たコードギアスというアニメです(詳しい説明はWikipediaに譲ります)。ギアスという特殊な能力を手に入れた高校生が反体制分子のリーダーとして現体制に戦いを挑むという物語ですが、そこでの主人公の役割は指揮官であって、戦うことだけに価値観を見出す人物ではありません。作中で浅間山荘を彷彿とさせる建物が攻撃されるシーンがあります(第10話)。あれなどは、このアニメで描かれている反体制闘争はかつての学生闘争とは一線を画したものであるということを、皮肉に包みながらも強烈にアピールしたものだといえるでしょう。ただ戦いに勝つだけではダメで、その先に何を見ることができるのかということがこのアニメの本質でしょう。したがって、物語がメタなものになるのはある程度は必然だといえると思うのですが、デウス・エクス・マキナ(→Wikipedia)みたいな結末にはしないで欲しいなぁと願わずにはいられません。
 閑話休題です。本書は青春ミステリのパイオニアとして知られてるわけですが、ここで描かれている若者に対する大人たちの認識は今となっては古いと思います。しかし、若者たちの姿自体ははそんなに奇異じゃないというか、むしろ今では普通になってるような気もします(もっとも、かくいう私自身も今では大人側なのでよく分かりませんが)。下の世代を宇宙人扱いして拒絶するのではなく、推理小説仕立てにすることで理解の対象とし、それによって世代間の相互理解の可能性が提示されているのは確かに面白いです。そうした可能性の模索自体は、時代が変わろうとも普遍的なものでしょう。また、本書はミステリとしてもそれなりに傑作です(小粒なことは否めませんが)。本書がすでに時代遅れなのは確かなのですが、それならそれで昔の物語を読む面白さというのもあるわけです。かつてのベストセラーも今ではマニアックなものでしょうけれど、傑作なことには間違いないので未読の方にはオススメです。

アルキメデスは手を汚さない (講談社文庫)

アルキメデスは手を汚さない (講談社文庫)