解釈の向かう先についての無駄な一私論

 たまには具体的な作品から離れて抽象的な作品論でも語ってみましょうか。ということで、以下、建設性のまったくない思考の残骸です。法解釈は過去の事実の発見から未来を創造するものだけど、物語解釈は現実に奉仕するものであって未来の創造には繋がらないから困ったもんだね、といった話を筒井康隆の言葉を交えながらぐだぐだ述べてます。結論はありませんので予めご了承下さい。

「裁判所で行われている作業は、過去の事実の発見と、未来の創造である」
(2007年5月9日付朝日新聞朝刊28面〈第2埼玉〉『埼玉の法廷から』より)

 僕がデビューした頃、当時は「ヤングアダルト」と呼ばれていた世界は、一言で言うと「何でもあり」だったんですね。どんな文体、どんなテーマ、どんな主人公でもとにかく「面白い!」と言える物語を読ませてくれた。だから作家を志したときに、ごく自然にその場所に入っていけたんです。でもそれから10年ほど経つうちに、「ライトノベル」という名前が公に使われるようになってきて、名前に固定されるかのように、ジャンルが作られていったんです。ジャンルに括られることで読者にとって把握がしやすくなったり、編集者にとって本が売りやすくなったりするというメリットはあるんでしょうが、僕は、何かの表現物がジャンル化されることで、作り手にとっても読み手にとっても不自由になっていくのを、たくさん見てきた気がして……。
 今では作家たちの中でも「ライトノベルとはこうあるべき」という議論が盛んにされるようになって、なんだか窮屈だなあと思ってますね。
秋田禎信が考えるライトノベルより

 だから変な話ですけど、僕みたいな実作家はあまりこういうことを考えたり喋ったりするのはいけないんじゃないか。あまり自分で自分の創作の意図を明確にしてしまったり、ある程度方法論を確立してしまったりすると、それに縛られることになるし、だいいちその方法論を読者に知られてしまった場合、書き手の方は面白くない。
 それと作家の無意識的な凄さが方法論によって抑圧されて出てこないということがありますし、さらには俺の方法論はこうだと提示してケチのつけようのない形で小説を書いた場合、今度は批評家から「あざとい」という悪口が出てくることもあるわけです。方法論を明確にすることは、作家としてまだ未知である自分によって書くことを放棄することにもなる。それはまずいんじゃないかと思うんですけれども。
筒井康隆柳瀬尚紀『突然変異幻語対談』[河出文庫]p221〜223より)

 裁判の場合、法律と具体的な事件とがあって、その両者をつなぐものが法解釈です。文理解釈とか類推解釈・反対解釈といった様々な方法がありますが、そうした解釈を裁判所が行なった結果として明らかとされるのが判決です。判決はその適用法文における裁判所の解釈を示すものであり、将来における類似の事例においての裁判所の判断の指針となります。それによって市民は法の意義を知ることができ、それに基づいて行動することができるようになります。意義の明確化によって得られる市民秩序こそ法的安定性と呼ばれるもので、裁判所の判決の妥当性を考える場合にもっとも重視されるものでしょう。つまり、

具体的事例→法適用→判決

ということになります。そして、この作業はまさに未来の創造のために行なわれます。
 一方、物語の解釈においては、作品があって読者の読み方があります。この二つ、特にライトノベルと呼ばれる作品群の場合にはジャンル性など本来なくてそれこそ自由だったはずです。ところが、どうやらライトノベルにもそれを読み解く理論みたいなものが確立されてしまう現象が起きてしまってるらしいです。であるならば、上述の裁判と似通った作業工程、すなわち、

具体的作品→ジャンル論適用→均一的評価

と言った流れが生まれてしまいます。裁判の場合は、法的安定性が求められるのでこうした均一的な評価が生まれるのはとても好ましいです。ところが、作品論の場合には誰も安定性など望んでいないはずのでこうした現象は明らかにマイナスです(このことはジャンル性がある分野においても程度の差こそあれ例外ではないでしょう)。にもかかわらず、何故こうした作業が行なわれるのか? それは現にある作品を消化するため、みんなでその物語を共有するための、言わば現在のために過去の事実を発見する作業だと言えるのではないでしょうか? そうした作業は現在を心地よくする一方で未来を閉塞的なものにしてしまいます。
 こうなると情報を遮断した方が、作家としては新しいものが書けるかもしれないし、読者としても新鮮な気持ちで作品に接することができるでしょう。しかし、これだけいろんな情報が氾濫していてその取捨選択が困難な状況下にあっては都合の悪い情報だけ無視するというのはほぼ不可能です。それに、好きだから書いたり読んだりするわけで、そうした人に、その方面に対して怠慢になれと言っても無茶でしょう。

 ただあえて予想するなら、昔から言われていることですけれども、エンターテイメントの方は二極分化と言いますか、テレビドラマの原作にしやすいホームドラマやミステリーが大量に出るということが片一方にあれば、片一方はますます虚構性を強調した荒唐無稽なもの、あるいはゲーム小説のようなものになる。
(『突然変異幻語対談』p223より)

 テレビドラマの原作に適した物語というのは平凡かもしれませんが普遍的なものですので、いつの世にもそれなりの需要はあるでしょう。一方、虚構性を強調したものは、本来なら先鋭的なものなはずなのですが、ここを昨今のアニメ化ブーム(?)がフォローしてしまってる結果、ここ平凡化に侵食されてしまって二極化を維持できなくなっているのが現状だと言えるでしょう。こうした中で、作家側が新しさとか個性を見出すのは確かに難しいと思います。
 ということで、解釈論について解釈してきましたけど、オチがつかなかったので強制終了です。ただ、ライトノベルはジャンルじゃないってのは強く思いますけどね。ま、ジャンル論はまた別の機会に気が向いたらということで。やっぱり、具体的な作品なしにアレコレ語るのは私にはとても難しいことが再確認できたのが唯一の収穫だと思います(笑)。さ、次は何を読もうかな……。