『”文学少女”と飢え渇く幽霊』(野村美月/ファミ通文庫)

”文学少女”と飢え渇く幽霊 (ファミ通文庫)

”文学少女”と飢え渇く幽霊 (ファミ通文庫)

※以下、既読者限定でお願いします。また、元ネタになってる本も読んでて当たり前というスタンスですので、そちらも予めご了承下さい。
 プロローグからしここは人間嫌いの天国だ。(p4)の一文で始まるとおり、本書は『嵐が丘』を元ネタにしてます。白状しますと、『嵐が丘』はそんなに好きなタイプの小説ではありません。登場人物がどいつもこいつも非理性的な言動をとりますし、その盲目的なまでに一途な愛にはついていけませんし、そうした人物たちの間で錯綜する愛憎劇には息が詰まりますし、とにかくページが進むとは申せません。そのドロドロした筋立てはまるで昼ドラで、実際『愛の嵐』というタイトルでテレビドラマ化もされています(参考:Wikipedia)。
 そんな複雑な心理が交錯する恩讐劇が元ネタになってるだけに、本書の展開も唐突で、どいつもこいつも結果的に余計なことをする一方で物語は最悪の方向へとノンストップで突き進みます。そんなところで元ネタに忠実にならなくてもいいのに(苦笑)。『嵐が丘』を元ネタにしてると言っても、ちょっと屈折した形で登場人物に投影させています。櫻井流人の女たらし属性は、前作で題材になった『人間失格』の葉蔵を思わせるところがありますが、『嵐が丘』の主要人物たちの過剰なまでに一途な愛情に対するアンチテーゼであり引き立て役と言えるでしょう。役割としてはロックウッドなのでしょうが、それにしては深入りしすぎたものになってます。一方、語り手であるエレン・ディーンの役割を与えられているのは姫倉麻貴ですが、その姫倉は単なる語り手以上のものとして存在しています。したがって、本書においてロックウッドとエレンの役割を真に与えられているのは心葉と文学少女の遠子先輩ということになります。
 それにしても『嵐が丘』を題材にしておきながら、本書の結末はかなり違うものになっています。元ネタ信奉者の怒りを買ってもおかしくないと思うくらいです(笑)。もっとも、これはこれでありだと思います。私は『嵐が丘』がそんなに好きじゃありませんが、それでも最後まで読めばお気に入りのシーンも生まれてきます。それはヘアトンとヒースクリフの関係です。(二代目)キャサリンに(本当のことを言われて)侮辱されているヒースクリフをかばうヘアトン、ヒースクリフが死に瀕しているときに懸命に看病するヘアトン、ヒースクリフの葬儀に際しただ一人涙するヘアトン。ヒースクリフとヘアトンの物語は語り手であるエレンの目の届かないところで進展していたために、読者にも語られていない物語です。ですから、ヒースクリフに冷遇されていたはずのヘアトンがここまでヒースクリフに対して誠実な態度をとれることが少々意外ではあったのですが、ここにこの物語の真実があるように思うのです。恋愛のドロドロした暗黒面ばかりが語られる本書において、語られてこなかった物語によって紡がれてきた真心が表現されることで、それまで不幸の源泉として語られていた恋愛模様についても輝かしい一面が補正されたように思いました。だからこそ、死に臨む際のヒースクリフの心情に説得力が生まれてくると思うのです。愛と憎しみのラリーが愛で決着する本書の結末は、ヒースクリフに対するヘアトンの思いがモチーフにもなってるのだと思います。
 ということで、本書は『嵐が丘』についての知識がないと正直辛いと思います(実際、私は辛かったです)。元ネタへの依存度があまりにも高すぎて、本書単品としての評価は私の中ではそれ程高くありません。何となくミステリっぽくするためだと思われますが、暗号の謎も用意されてはいますけど、あまり意味があるとは思えません。結局のところ、心葉たちは読者(あるいは語り手)として選ばれたに過ぎない存在です。
 そうした存在であることが許されるのも、天野遠子が物語を食べることで生きる”妖怪”であり、物語なしでは生きていられないからです。本好きの欲望を具現化したかのようなその設定は、どんな物語でも読んでくれるという、作者にとっての欲望を具現化した存在でもあるかのようです。かつて謎の天才美少女作家だった井上心葉ですが、二作目を書かないことを決意している彼が翻意するとすれば彼女の存在がそのキッカケになることは間違いないと思います。ただ、逆に言うとその不自然な設定なしには心葉は二作目を書けないのか? という疑問も沸いてきまして、それは巻が進むにつれて大きなものにもなっていきます。それほどまでの闇を心葉に背負わせたいのでしょうか? だとすれば、今のところ読む側の物語である本シリーズですが、最終的には書く側への物語へとシフトしていくのでしょうね。その証左とも言えるのが本シリーズの語りの構成です。心葉による一人称の語りが基本なのですが、ところどころに太字による第三者の記述が紛れ込むという形式がシリーズを通して(少なくとも4巻までは)ずっと採用されています。この第三者の記述は単に一人称では語りきれない部分を補うためだけでなく、Aという人物が書いてると思ったらBだった、あるいはAが書いてるけど途中からはBが書いてる、というように読者にミスリードとサプライズを与える機能も果たしています。そうした機能は、ミステリとしての体裁を保つためには必要なものですが、読み方の多様性を体現しているものでもあります。それはそのまま元ネタの解釈の多様性にもつながるものでしょう。
 いずれにしても、そうした太字の記述は何らかの目的で作中の登場人物が書いたもの・作中作なわけで、そこでは様々な人物が様々な動機で物語を書いています。物語を書く理由は決して一つではありません。ただ書きたいから、という理由では書けなくなってしまった心葉が本作みたいに不幸な物語を前にして、それでも自らの書く理由を見つけることができるのでしょうか? 明るい結末は正直予想しにくいのですが、そこは何とかしてくれるものと信じています(笑)。
 あと、これは完全な余談になりますが、作中で赤川次郎さんは本格派ではないような……。(p16)という問題(?)発言があります。一般論としてはそのとおりなのですが、中には本格ファンも納得の作品があります。赤川次郎といえば何といっても”三毛猫ホームズ”でしょうが、その第一作である『三毛猫ホームズの推理』は本格ファンの間でも有名で評価の高い推理・トリックが用いられていますので、未読の方にはご一読をオススメします。
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