『名人』(川端康成/新潮文庫)

名人 (新潮文庫)

名人 (新潮文庫)

 少し前に書いた記事、将棋は”指す”、囲碁は”打つ”、じゃチェスは?(将棋用語3大ミス)でも触れましたが、将棋の第65期名人戦が森内対郷田で行われている現在、少なくとも2007年内に羽生名人と表現するのは明らかな間違いです。なぜなら、名人というのはタイトルの名称でありその保持者しか名乗ることができないからです。さらに、その名人というタイトルにしても必ずしも棋戦最高位とは言えず、賞金額との関係で読売新聞主催の竜王位が最高位とされているらしいです。将棋を趣味として楽しみ、その過程でプロの将棋にも詳しくなってくるとこうしたことも自然と分かってくるのですが、しかし、にもかかわらず一般的な認識において、やはり将棋の最高位は名人でありそれに相応しいとされるのは羽生なのです。これは、名人というものが将棋というものの象徴する特別なものであり、一方羽生もまた将棋界七大タイトルを独占したことで将棋界の象徴となり(参考:Wikipedia−羽生善治)、そうした両者の象徴性がシンクロした結果、羽生名人という格好の象徴ができてしまったのだと思います。
 名人という称号は将棋のみならず囲碁界でもまた特別な意義を持つタイトルです。囲碁界のタイトルの序列もやはり賞金額で左右され、現在では棋聖(主催:読売新聞)が最高位らしいです。それでもやはり名人は特別で、それを表しているのが本書『名人』という作品であり、あるいはそのタイトルなわけです。現在、名人はタイトルとしての一称号であり、毎年毎年、番勝負による争奪戦が行なわれます。しかし、昔は、名人というのは囲碁・将棋界においては一度なったら死ぬまで名人という世襲制のものでした。なればこそ、名人ともなればその権威に傷をつけることは許されず、稽古はしても真剣勝負はできるだけ避けるという、まさに神聖なものでした。しかし、囲碁の競技化・興行化によって、名人位も世俗のものとなることを余儀なくされます。競技化は名人以外のタイトル戦の創設にもつながっていきますが、それでも、名人という称号には他とは違う特別な響きがあることは否めません。坂口安吾ヤミ論語:大衆は正直(青空文庫)などでも、名人は特別なものとして語られています。そうした精神的尊崇の対象としての名人として生きながら、最後には名人の地位を主催新聞に渡して勝負碁としての一局を打ち、そして死んでいった終身制最後の名人の、その一局に賭ける姿を描いたのが本書です。
 本書は、ほぼ実際にあった事柄を小説に書き起こしたものです(参考:Wikipedia)。著者の川端康成にしても、この対局・名人の引退碁の観戦記を実際に書いてるわけですが、そうした自分自身の姿も作内に取り込んで、言わば一種の私小説として書かれたのが本書です。とは言え、本書の主人公は21世本因坊秀哉名人以外の何者でもありません。絶対上位者としての苦悩、その道に身を捧げながらも自由に打つことを、負けることを許されず、その芸道を極めることにひたすら努めてきた一人の名人が、その地位を世俗に譲り渡すために背負った重圧たるやいかほどのものだったでしょうか。川端康成と言えば『伊豆の踊子』、『雪国』などが代表作なのでしょうが、私はこの作品がダントツで好きです。
 本書で描かれている対局は、持ち時間各40時間という今では考えられない異例のスケールで、名人の病気による中断などもあって決着に約半年という長期に渡って行なわれました。これだけ潤沢な持ち時間があれば存分に時間をかけて好きな手を打てるんだから棋士冥利に尽きるだろう、と思われるかもしれませんが、身を削るような真剣勝負の緊張感を半年も維持しなければならないのかと思うとその心労は想像を絶するものがあります。実際、本書内でも名人は体調を崩してしまい、この対局の2年後に亡くなってしまいます。
 長期間の対局ですから、封じ手も当然行なわれるわけですが、今では当たり前となってる封じ手を巡る駆け引きなどの戦略的な考え方が、当時は卑怯なものとされていて、その辺りを巡る対局者同士の心理や周囲の反応など、現在とのギャップはなかなか面白いです。決して奇麗事だけではないのですが、だけど何よりも、勝負の純粋さ・碁の不思議な魅力を、心に染み入るような筆致で描いてくれています。「碁や将棋をやって、相手の性格が分かるものではない。対局を通して、相手の性格を見るなどということは、碁の精神から考えると、むしろ邪道だろう。」と名人は素人の碁についても言ったことがある。半可通な気風論好きを憤ったのだろうが、「私などはそんな相手のことよりも、碁そのものの三昧境に没入してしまう。」(p74より)とか、(直木三十五が)碁は「無価値と言えば絶対無価値で、価値と言えば絶対価値である」と書いているのを、私は思い出したりした。(p97)など、囲碁についてとても印象に残る言葉・記述がたくさんあります。「それじゃ、中国の強い人と日本の素人の強いのと、だいたい同じくらいですね?」(p107)などという台詞があるのですが、今じゃまったく考えられないことです(苦笑)。囲碁ファンは当然のことながら、将棋ファンでも感じることの多い本だと思います。
 本書の構成は少し特殊です。テレビアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』で話題になった、いわゆる時系列シャッフル(参考:Wikipedia−涼宮ハルヒの憂鬱)の手法が採られています。この対局は237手まで打たれて決着となったのですが、最も大きなポイントとなったのは130手目です。この130手目を物語として効果的な位置に配するためということもあって、このようなシャッフルが行なわれたものと思われます。結構頻繁に時間的に往ったり来たりするのですが、物語としては混乱することなくスンナリと頭の中に入ってきます。この130手目と、その前の121手目についての対局者や周囲の見解や当時の心境などの描写が、本書の中で私の一番好きなところです。対局から一年後に発行された本局121手目についての名人の講評など、まさに碁の絶対価値というものをしみじみと感じさせてくれます。
(以下ネタばれ↓)
 この勝負、結局、黒の五目勝ち(名人の五目負け)ということになってしまうのですが、黒の優位が認められて6目半のコミ(白に与えられる領地のハンディキャップ)が常識となってる今の基準だと、むしろ白の勝ちなんですよね。こうした吟味ができるのも、単なる勝負としてだけではなく、後の世に芸術として最善を追求して恥ずかしくないものを残そうという対局者の意志を、その棋譜から感じ取ることができるからこそでしょう。

(↑ココまで)
 もし近くに碁石と碁盤があったら、読了後にそっと並べてみたくなる、そんな一冊です。