『宴の果て 死は独裁者に』(佐飛通俊/講談社ノベルス)

 悪趣味なのは自覚しつつも表紙に釣られて買いしました(笑)。

宴の果て 死は独裁者に (講談社ノベルス)

宴の果て 死は独裁者に (講談社ノベルス)

 日本の南に浮かぶ島――日本から独立した科学的社会主義の国「弥生」。その元帥様が、犯行不可能な国防委員会の最中、毒殺された! だが側近は事実を隠蔽。目星をつけていた日本人・有明無明を浜松の海岸から拉致し、影武者として元帥様を演じさせるが、また新たな事件が……。「弥生」、そして無明はどうなる? 妙にリアルな、国際サスペンス本格ミステリー誕生。

 裏表紙のあらすじの引用です。読了後に改めて見るとアンフェアじゃね? という記述が散見されますが、それが気になるほどミステリとしての読みどころがあるわけじゃありません(笑)。
 私がそうだったのですが、エラリー・クイーンの傑作『帝王死す(ネタばれ書評)』を連想されるミステリ読みの方も結構いるんじゃないかと思います。『帝王死す』の場合、独裁者の死は物語の中盤に起きますが、本書では冒頭から死んでることになってます。ですから、本書の著者が『帝王死す』を模範としてるどうか実際には分かりませんが、『帝王死す』にはない工夫・展開も用意されています。既存の傑作を念頭に置きながら読み進めつつも、単なる比較以上の楽しみ・読み応えはあります。ただ、比較しちゃうと『帝王死す』の方が数倍面白いとは思いますが、それは相手が悪いからそうなるだけで、本書もそれなりに面白いと思います。思うけど、高く評価するとかまでは到底行かないのが正直なところです。これなら表紙から受けるイメージどおりバカミスであって欲しかったです。
(以下、ネタばれ紛いの愚痴。)
 政治的題材を一種のパロディに押し込めつつ本格ミステリの流儀で小説化するのは、基本的に私はありだと思います。日々が宴であり、法治国家でもなく殺人が殺人として成立しない、異形あの国の〈あり方〉それ自体が推理小説的であると思えますという本書カバー折り返しにある著者の言葉もその通りだと思いますし、なぜなら『帝王死す』がまさにそうだからです。人権を顧慮しない”人民”という概念と、本格ミステリにおける人間の記号化と、両者はとてもシンクロしやすいものだと思います。本格ミステリとしての殺人手法、つまりトリックは地味だし工夫にも欠けますが、堅実で論理的なことは間違いないですし、小粒ながらも私は嫌いじゃないです。
 ですので、本格ミステリとしてはそんなに悪くないのかもしれませんが、国際サスペンスとしてみたときに不満というかイマイチというか、とにかく物足りません。そりゃ、ぶっちゃけると北朝鮮が本書のような終わり方を迎えることは十分考えられます。しかし、そうした希望的観測をそのまま小説化しちゃうのは安直に過ぎます。「こうなったらいいなぁ」とは大抵の日本人が思ってるでしょうが、こんな平凡なストーリーを描くために本格ミステリの手法を用いたのだとしたら、それは「分かってない」か手抜きかの、少なくともどちらかと断ぜずにはいられません。拍子抜けです。こんなお約束のラストのためにカットバックを用いてるのも技法の無駄遣いですし、結果として読者に無用の苦労をさせただけです。確かに色物ではありますし、こうして話(書評)の種にはなりますが、しかしそれ以上のものではないな、というのが正直な感想です。