『バクマン。』が描く現代の「天才」 『バクマン。』3巻書評
- 作者: 小畑健,大場つぐみ
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2009/06/04
- メディア: コミック
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2巻では編集部へマンガの持ち込みを開始したサイコー・シュージンの二人。しかしながら最後に自分たちの描く「反・王道マンガ」という道筋を否定し、一からやり直そうと決意します。
3巻では彼らの迷走、そして新たなる決意が描かれています。
ジャンプで描く「意味」
迷走と書きましたが、実際のところ3巻は「修行編」だと思っています。
自分たちのとりえである「反・王道マンガ」というアドバンテージを捨てて、「王道マンガ」を描こうとするサイコー。週刊連載で読んだときは、「なにコイツワガママ言ってんだよ」とか思いましたが、単行本を読み返し冷静に考えると、「この迷走はとある一つの疑問に対し「解」を出しているのかな」と思えるようになりました。
すなわち、「なぜサイコー・シュージンがジャンプを主戦場にしようとしているのか」ということ。
「アニメ化」が目的であれば、もっとマイナーかつメディアミックスに積極的な雑誌もあるわけで、わざわざ狭き門である「ジャンプ」で描く必要もないわけです。
しかしながら彼らはジャンプで描こうと決めた。
それは、『バクマン。』の掲載誌がジャンプであるというメタ的な理由を除くと、若干動機付けとしては薄いところでした。
しかし、この「反・反王道マンガ」を模索するエピソードを通じ、サイコーが秘めている「野心」を炙り出すことに成功しました。*1
常に上を目指すと野心が、ジャンプを主戦場とし、ジャンプで王道マンガを掲載することを決意させたのではと、読者の疑問をある程度氷解させていると思います。
新妻エイジという「天才」
そして3巻で存在感を発揮したのが新妻エイジ。
編集者・服部との打ち合わせの最中、新連載差し替えに伴う編集部呼び出しによりサイコー・シュージンと新妻エイジは邂逅します。
そこで彼の奇矯さとマンガに対する熱意、そして彼の「才能」を目の当たりにし、二人は更なる熱意を燃やします。
2巻で新妻エイジが登場したときは、サイコー・シュージンのライバルとして位置づけるかのような演出でした。
しかしながら意表をつくかのように新妻エイジはサイコー・シュージンを「亜城木先生」と呼び、彼らの作品をリスペクトします。
ライバルとして登場しながら、倒すべき「敵」でもなく、一緒に戦う「味方」でもない。
前回の感想で『バクマン。』をスポーツマンガのフォーマットとして説明しましたが、ひと世代前のスポーツマンガとしてはあまり存在しないキャラクタといえましょう。
ある種ニュータイプの天才キャラではありますが、個人的には深澤真紀『平成男子図鑑 リスペクト男子としらふ男子』でとりあげられている「リスペクト男子」を思い起こさせました。
リスペクト男子のこうした性向は、おやじ世代の「友達であろうと、踏み台にして自分だけ成功する!」といった単純な上昇志向に比べれば、よほどましかもしれません。
おやじ世代が勝ち組、負け組にこだわったことが、現在の格差社会を生み出した一因ですが、男子世代は単純な勝ち負けにはこだわりません。
(深澤真紀『平成男子図鑑 リスペクト男子としらふ男子』p21)
天才でありながら他人を素直に尊敬する。それは新妻エイジの「マンガに対する純粋な情熱」によるところも大きいですが、一方で他人を意識しすぎるきらいがあるサイコー・シュージンと対比しているのではないかと思います。
非常に現代的な「天才」キャラ。こういった「現代感」もあいまって、作品のリアリティを高めています。
そしてまた、新妻エイジの存在はサイコー・シュージンの「限界」を浮かび上がらせ、「天才」「凡才」の対照をさせる絶妙な位置です。
3巻では主にサイコー・シュージンが挫折し、壁を破るためにもがき続ける1冊だと言えます。
天才でないからこそ挫折する。挫折するからこそ乗り越えたときのカタルシスがある。
天才でないからこそ他人を意識する。他人を意識するからこそ他人を越えられる。
『バクマン。』という物語の主人公をサイコー・シュージンという限能感をもった「凡才」を据えた時点で、彼らが挫折し、もがき、苦しみ、それでもなおかつその困難を乗り越えることは物語の原動力として織り込み済みであったと思います。一方でその乗り越え方、そしてそのテンポは非常に短く、良い意味で「週刊連載を意識したテンポ」だと思います。
長々と挫折を引っ張ると人気が落ちる可能性がある。そこで、挫折ながらも新キャラやイベントを挟むことで読者のモチベーションを保つ方法が絶妙だと思いました。
実際、『バクマン。』はマンガ界の内情を暴露するかたちでこれまであえて語られていなかった事実を少しずつ陽のもとに晒していますが、物語そのものは非常に「フィクション」寄りであり、亜豆との恋愛フェーズやデビューまでの道のりなど、ともすればご都合主義との謗りを免れないほど非常にテンポよく進んでいます。しかしながら、この小気味いいほどのテンポのよさは前作『DEATH NOTE』にも通じるものがあります。1巻の感想でも書きましたが、『バクマン。』は『DEATH NOTE』と同じ濃度で進められています。週刊連載を意識したテンポとでもいいましょうか、問題が発生しても次の回で解決するぐらいの、読者にストレスを感じさせないテンポ感だと思います。
【参考】『バクマン。』と『DEATH NOTE』を比較して語る物語の「テンポ」と「密度」 『バクマン。』1巻書評
ある意味ライブ感溢れる物語の進み方は読者の意識との乖離を生みがちですが、これを繋ぎとめている一つの要素は、物語世界を構成する「リアリティ」であると考えています。*2現実世界の野球のルールに沿っているからこそ、創立1年目の野球部が甲子園に行くお話に違和感を感じさせないのと同じようなものかなぁ、と個人的には考えています。
ぶっちゃけすぎなぐらい事実を基にした世界を基盤に描かれるテンポ良い物語。この「ファンタジー」と「リアリティ」の絶妙な匙加減が『バクマン。』の面白さの一つであることは確かです。
「サークルマンガ」と勝者なき戦い
行き詰まりを感じている現況を打破するために、サイコーは新妻エイジのアシスタントを志願します。そこで、同じく漫画家を目指す福田、中井と出会います。
新妻エイジから何かを盗めれば、と思ったサイコーですが、なぜか福田たちと「新妻エイジの連載をもっと面白くするために」知恵を絞りあうことになります。
新妻を交えて「マンガ談義」をするサイコーたちですが、ここでの雰囲気はこれなんて『げんしけん』?というぐらい文化系サークルでのオタトークそのもの。もちろん、自らのマンガを高めようとする目的があるのは確かなのですが、そこには「体育会系」で見られる「勝ち負け」という要素が存在しません。いわゆるスポーツマンガでは「勝負」があり、勝者と敗者が存在します。『バクマン。』でも「連載」という目的はあるものの、他人との戦いというよりもむしろ「自分との戦い」です。
勝負事で勝つということは、すなわち「相手を負かす」ことであり、逆に言えば「相手を負かす」ことが「勝つ」ことでもあります。極端な話、自身を高めるベクトルと同じ熱量を持って「相手を勝たせないように妨害する」ことに費やせば「勝つ」ことはできるわけで、「試合」という勝負事を行うスポーツは「勝ち」「負け」を大きく意識するジャンルと言えると思います。
それと全く対称的なのが「文化系サークルマンガ」なわけで、勝負も何もないヌルい世界ということもありますが(笑)、勝つだの負けるだのといった相対評価ではなく、自身を高めること、自身を高めた結果が「勝利」に繋がるというベクトルを持っていると思います。彼らの中では「他人を蹴落としてでも連載をとろう」とギラギラとした野心を持っているキャラはいません。それは彼らが「自身を高めれば自然と結果はついてくる」という自信を持っていることの裏返しでもありますし、「競争慣れ」していないという性格もあるのでしょう。
埼玉西武ライオンズの監督である渡辺久信が書いた本、『寛容力』では最近の若者についてこう語られています。*3
最近の選手の中には、昔のように高校内で何十人の中から競争してエースになった、4番になったという選手ばかりたちばかりではなく、無名校で”お山の大将”的にやってきた選手も増えています。彼らはプロに入って初めて、「はい、用意スタート」という形で競争が始まるわけです。そこで「今までと違う」とギャップを感じたり、カルチャーショックを感じたりしてしまう。つまり、競争に慣れていないのです。(P47)
個人的には、最近のスポーツ選手の中にも「他人を凄く意識する選手」と「全く意識しない選手」がいると思っていますし、特に若く才能がある選手などは後者が増えてきているかな、と思ったりしています。
孤高の「天才」と群れる「凡才」
新妻、福田たちとの「ジャンプ談義」は結局、「なにもしなくても新妻の人気が上がった」というオチで終わるのですが、このやりとりでサイコーは原点に帰ることを思い至り、自信の方向性を仄かに見いだします。
当初新妻エイジが登場したときは、主人公のライバルかのような印象を受けましたが、実際には「ジャンプ漫画家の先輩」というお茶目な位置づけになると同時に、サイコー・シュージンたちが成れない「天才型」漫画家として存在感を出しています。
新妻エイジはちょっとほかとは異なりますが、、基本的に「天才型」のキャラは基本的に他人を気にしません。先述した「自己を高めれば結果がついてくる」というスタイルと共通するのですが、多くのマンガで描かれる天才とは、ややコミュニケーション不全なところがある孤高の存在です。
一方、サイコーとシュージンは第1話から自分たちが「天才型」でないことを認識し、限定された能力をいかに活かすかという方向性に注力しています。
ただし、天才が孤高で他人の力を必要としていない(あるいは他人のアドバイスを取り入れると角を矯めて牛を殺してしまう)のに対し、凡才は他人の意見や知識を吸収し、また切磋琢磨することで成長する、というアドバンテージを持っています。
実際、サイコーとシュージが「ネーム」と「作画」という分担作業を行うのもそれぞれの長所を活かし、「二人で一つ」となるためでした。
『バクマン。』でたびたび当たる「天才」の壁。その壁を越える要素として、「他人との交流による成長」というやりかたが今回示唆されているのも非常に興味深かったです。
回り道をしながらも、漫画家デビューに向けて着々と歩んでいるサイコーとシュージン。二人をどんな「物語」が待ち受けているのか。4巻も楽しみにしたいと思います。
●『バクマン。』と『DEATH NOTE』を比較して語る物語の「テンポ」と「密度」 『バクマン。』1巻書評
●『バクマン。』と『まんが道』と『タッチ』と。 『バクマン。』2巻書評
●『バクマン。』が描く現代の「天才」 『バクマン。』3巻書評
●編集者という「コーチ」と、現代の「コーチング」 『バクマン。』4巻書評
●漫画家で「在る」ということ。 『バクマン。』5巻書評
●病という「試練」。『バクマン』6巻書評
●嵐の予兆。『バクマン』7巻書評
●キャラクター漫画における「2周目」 『バクマン。』8巻書評
●「ギャグマンガ家」の苦悩 『バクマン。』9巻書評
●「集大成」への道のり 『バクマン。』10巻書評
●第一部、完。 『バクマン。』11巻書評
●「創造」と「表現」 『バクマン。』12巻書評
●スポーツ漫画のメソッドで描くことの限界について考察してみる。 『バクマン。』13巻書評
●七峰という『タッチ』の吉田ポジション。 『バクマン。』14巻書評
●「試練」と「爽快感」 『バクマン。』15巻書評
●天才と孤独と孤高と。『バクマン。』16巻書評
●リベンジと伏線と。 『バクマン。』17巻書評
- 作者: 深澤真紀
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- 作者: 渡辺久信
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2008/11/11
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