『ビッグ・ボウの殺人』(イズレイル・ザングウィル/ハヤカワ文庫)

ビッグ・ボウの殺人 (ハヤカワ・ミステリ文庫 サ 4-1)

ビッグ・ボウの殺人 (ハヤカワ・ミステリ文庫 サ 4-1)

 本書は、『有栖川有栖の密室大図鑑』で世界最初の密室トリックものとして紹介されているくらいに古典中の古典のミステリ*1です。『ビッグ・ボウの殺人』というタイトルから巨大な弓矢による殺人を想起される方もいらっしゃるかもしれませんが違います(笑)。ボウ地区での大事件、といった意味合いです。
 なぜこのような古典を本棚から引っ張り出してきたかといえば、本書の序文を読み返してみたくなったからです*2。本書はもともと新聞の連載形式で発表されていたため、読者から犯人やトリックの予想がたくさん寄せられたそうです。そうした手紙に対して著者は、「連載紙では『皆さんの手紙に書かれている真犯人を外すかたちで結末を書いた』と書きましたが、それは皆さんにもお分かりのことと思いますがジョークです。ミステリ小説というのは緊密な構成されているものなのですから土壇場になって筋書きを変更することなんてできやしません。この結末は最初から決まっていたことなんですよ」というようなことが述べられています(詳しくは実物をお読みください)。
 なるほど。著者ザングウィルは自らを念入りにプロットを練ってから書き上げるタイプだとしているわけで、そうした立場からすれば一理ある主張だと思います。ただ、実際には書きながら真相を思いつく場当たり型のミステリ作家も結構いるみたいですから、こうした主張の真偽は定かではありません。犯人当て・トリック当てゲームを厳格に行いたいのであれば、二日制の将棋や囲碁のタイトル戦のように封じ手をして公平性を担保する必要があるでしょう。
 インターネットの発達によって、作者と読者の距離は格段に縮まりました。連載中のミステリや続き物のノベルゲームなどに関する読者の予想や推理の仮説も、ネットを使えば多くの方に読んでもらうことができますし、場合によっては作者すらもそれを参考にして「後出しジャンケン」を行うことだってできないことではないです。そうした現状において、犯人や結末を予想したり仮説を論じることに果たして意味があるのかといえば、まあ面白ければそんなのどうだっていいのですが(笑)、単に結末を読むことよりも好き勝手に予想を言い合ってる方がむしろ至福の時かもしれません。ときにパズルゲームと揶揄されることもあるミステリですが、小説である以上筋書きは決して一様なものではありません。そこがパズルと小説の妙を味わいとするミステリの魅力ではないでしょうか。
 古典であるが故に本書のトリックは超有名なものです。たとえ本書を読んだことのない方であっても、密室殺人のトリックを思いつくまま適当に挙げていくと本書のトリックを無意識に喋ってしまうかもしれません。それくらい有名で典型的なものですが、しかし当時とすれば画期的であったことは間違いありませんし、本書のトリックを応用したりフェイクとして活用しているものはたくさんあります。シンプルにして盲点。実に見事なトリックです。
 そんなわけでトリックばかりに目が奪われがちですが、それ以外にも見逃せない点がたくさんあります。新聞連載だったということもあって、読者を喜ばせたり悩ませたりするためにに複数の仮説の検証がなされているのも実に興味深いです。それに、ときに「密室なんて意味がない。そんなことするくらいなら通り魔の犯行に見せかけて容疑者を絞らせないようにする方が遥かに有効だ」という主張がなされることがあります。確かにその方が実際的ではありますが、しかしながら最初の密室ものである本書において既にそうした主張に対しての反論がなされています。
 捕まりにくさということを考えると通り魔の犯行に見せかけた方が合理的なのは間違いありません。ただ、本書を読めばお分かりのとおり、当時のイギリスやアメリカでは検死審問という制度がありました*3。つまり怪事件が発生したらそれが殺人なのか、それともそれ以外のもの(自殺・事故・病死など)なのかをまずハッキリとさせる制度が存在していたのです。そのことを前提とすれば、本書の展開を読めば明らかなように密室での変死体は殺人とも自殺とも事故とも判別ができなくて、そこから捜査は進展しないことになってしまいます。捜査が進展しないということは、真犯人は枕を高くして眠ることができるということを意味します*4
 また、密室を無意味なものとする立場からは、怪しい奴を捕まえてから自供させればいい、という主張が散見されますが、そうした主張は自白を強要したり自白の偏重を促すものとして厳に慎まれなければなりません。それに、日本だとあまりないみたいですが、アメリカとかだと注目が集まる事件の場合には「俺が犯人だ」と名乗り出る人がたくさんいるみたいなのです*5。実際、本書でもそうしたことが指摘されていますが、そうなると自供だけでは全然意味がないわけです。やはりどうやって被害者を殺害したのかという密室の解明、ひいては因果関係の解明は欠かせないわけで、その意味で密室が無意味であるとの主張には私は与することはできません。沿革として、最初の密室ものの時点で既にこうした点が押さえられているところが本当にすごいと思います。
 また、

こんにちのような電気時代には、犯罪者は世界的な名声を得る。少数の芸術家に等しい特権が与えられるのだ。こんどは、このおれがその少数の芸術家のひとりに数えられるのだ。そうなって当然ではないか。もし犯人があの殺人を計画するにあたって天才的と言っていいほど巧妙だったのなら、それを解明した彼は、千里眼的と言っていいほどの鋭い推理力を備えていたということになる。これまで彼は、これほどばらばらになった鎖の輪をつなぎ合わせたことはなかった。劇的な計画を劇的な構成に仕立て上げる千載一遇の好機をのがす気にはなれなかった。
(本書p132より)

 これは芸術という概念を媒介として犯人と探偵との関係を述べたものですが、最初の密室ものにして既にここまでのことが考えられていたということには驚きを禁じ得ません。ってか、本書の真相というか犯人ってすごいんですよね。ものすごく尖ってるので古典であるにもかかわらずとても現代的で全然古臭さを感じません。こういう先例を読むとミステリは何をやってもいいんだなという気にさせられます。ともすれば読書ライフというのは新作を追っかけることばかりになりがちですが、たまには古典を読んでみるのも悪くないですよー(笑)。なお、本書にはポーの『モルグ街の殺人』のネタバレがありますので念のためご注意を。

有栖川有栖の密室大図鑑 (新潮文庫)

有栖川有栖の密室大図鑑 (新潮文庫)

*1:1891年刊行。

*2:ぶっちゃけると、「うみねこのなく頃に」について友人と駄弁っているときに本書について婉曲的にいろいろと話すことになったからです。

*3:今はどうなのかは知りません。多分ないんじゃないかと思いますが(汗)。

*4:ただ、本書の場合はそうした検死審問を無視した展開を見せているので、制度としてはやはり疑問じゃないかと思います。

*5:なぜそんなことをするのかは私にはよく分かりませんが。注目を浴びたいという心理なのでしょうか?

『学校の殺人』(ジェームズ・ヒルトン/創元推理文庫)

「常識のある人間なら、わしの見るところでは、たとえ刑事であろうとなかろうと、わしに許可を求めるのが礼儀だと思うよ。わしにその権利があるくらいのことは知っているはずだがね。レヴェル君、こんどその刑事に会ったら、だれの許可を得て私有権を犯してまで密偵を校内に入れたかぜひうかがいたい、そうわしがいっていたと伝えてくれたまえ! 公私のいろいろな権利を侵害するなんて、まったく恥知らずもはなはだしいよ!」
(本書p128より)

 誰がどうやって殺人を犯したのか? 真相を隠すための陥穽として真っ先に立ちはだかるのはトリックです。物理的なものにしろ心理的なものにしろ、トリックがその謎の中核となります。それを晴らすためには入念な捜査が欠かせませんが、そこに立ちはだかるのが社会的な障害です。雪の山荘や嵐の孤島というような物理的なものではなく、社会的に閉鎖された状況下での殺人事件。そこでは、その社会の中での秩序を維持しようとする力学が働いて、それがときに殺人事件の捜査と対立することがままあります。そうした対立から内部に潜む病理や人間関係の苦悩などが浮き彫りになって、物語に奥行きや深さといったものが生まれることになります。”社会派”といわれるミステリの醍醐味がここにあります。
 本書は『チップス先生さようなら』などで知られるヒルトンが書いた唯一の長編古典ミステリですが、タイトルどおりに学校の中で起きた殺人事件は、警察が自由に介入することのできない社会的に排他的な状況として捜査の進展を阻みます。もっとも、本書の場合は学校という空間が社会的なクローズド・サークルとしての機能を果たしているのみで、せっかくの学校という舞台が生かしきれていなくて社会派的な踏み込みには乏しいのが勿体無いと思わなくもないです(ちなみに、本書の更なる発展形としては、ディヴァイン『悪魔はすぐそこに』などがオススメです)。その辺、日本における社会派ミステリの発展には目を見張るべきものがあると思います。
 ただし、そうした社会的なクローズド・サークルというものが一種のトリックとしてだけでなくて真相の解明にも深く関わっている点には注目しなくてはなりません。ネタバレになってしまうので詳しいことはいえないのですが、とりあえず目次を見てみても、「推理から推理へ」とか「第三の(そして最後の)探偵登場」といった実に興味深い章題が並んでいます。(ネタバレ伏字→)ミステリにおけるお約束、特に探偵という役割について否応なしに考えさせられる上質のメタ(ここでのメタは、お約束を逆手にとっているという意味でのメタです。)ミステリに仕上がっています。(←ここまで)いや、この展開には驚きました。
 レヴェルという「探偵の才ある詩人」が主人公を務めているのもとても面白いです。いや、物語が始まると探偵ばかりしていて詩人としての役割をあまり果たしてないのが少々惜しくはあるのですが(笑)、でも詩で始まり詩で終わるところが、そこはかとなく論理というものの抽象性というものを浮かび上がらせているようで趣き深いです。古典なだけに死因や物証の認定に甘さがあって納得がいかない部分はあるのですが、しかしながら本書の仕掛けには一読の価値があります。まったくの初心者にはオススメできませんが、そこそこミステリを読まれた方にならきっと喜んでいただけるのではないかと思います。