『三本の緑の小壜』(D・M・ディヴァイン/創元推理文庫)

三本の緑の小壜 (創元推理文庫)

三本の緑の小壜 (創元推理文庫)

 そう。その危険に、アンは気がついていたはずだった。一列に並んだ、三本の緑のガラス壜。あの有名な数え歌のように、一本ずつ落ちて割れていく。
(本書p271より)


 本邦初訳作。原題は「THREE GREEN BOTTLES」です。由来はマザーグースからですが、お話自体はいわゆる童謡殺人ではありませんのでご注意を。
 夏休み直前、友人たちと遊びに出かけた少女ジャニスは帰ってこなかった。そしてゴルフ場で全裸死体となって発見される。容疑者として診療所の医師テリー・ケンダルが浮上するが、彼は崖から転落死してしまう。犯行を苦にしての自殺とみられていたが、やがて第二の少女殺人事件が起きる。犠牲者は同じく13歳の少女。危険だとわかっていたはずなのに、被害者はなぜ危険な場所にいたのか。そして真犯人は……? といったお話です。
 ひとつの町を舞台にした連続殺人事件ですので、本来であれば容疑者を絞り込むのは困難とも思われます。しかし、本書では巧みに容疑者が絞られることで人間関係的な緊張感が生じています。フーダニット(犯人当て)がテーマのミステリとしての面白さを堪能できます。
 本書で特筆すべきなのは、一人称多元視点の描写が用いられていることです。すなわち、「第一部 マンディ・アーミテイジ」「第二部 マーク・ケンダル」「第三部 シーリア・アーミテイジ」「第四部 マーク・ケンダル」「第五部 マンディ・アーミテイジ」というように、それぞれの部で語り手が変わります。そうした語り手変更の効果として、まずは複数の登場人物の内面を丁寧に描くことができることが挙げられます。ディヴァインの作品の特徴として、登場人物の心理描写と謎解きの妙が挙げられることが多いですが、本書については人物造形や他者への観察眼といった内的描写に特に力が入れられています。原作の著者紹介によれば、本作を発表した1972年当時のディヴァインにはちょうどティーンエイジの娘がいたらしいとのことです(巻末の訳者あとがきより)。そうした実体験と観察とが本書での13歳の少女の描写に活かされているのであろうことは想像に難くありません。ミステリというジャンルにとどまらない魅力が本書にはあります。
 一方で、そうした語り手の変更とリアリティある心理描写は、ミステリとしての趣向にも密接に関係しています。
 まず、語り手が変わることで事件を多面的に分析することができる反面、定点から観察していれば明らかになっていたであろう真実が不明になってしまうという側面があります。また、心理描写を丁寧に書き込むということは、語り手を単純なテレビカメラの役割として看做さないということでもあります。それは語り手の変更と相俟って、語り手に対する信頼度の揺れとして表れます。自分の気持ちに嘘をついているマンディの視点は果たしてどこまで信用できるのか? 人より知能が遅れているとされるシーリアの観察力は信用できるのか? そして、事件発生の時点から見て途中出場となったケンダルの弟マーク・ケンダルはどこまで過去について把握することができるのか? それぞれの内面と機微とが丁寧に描写されることで、幾重もの人間関係相関図が描かれていきます。アーミテイジ家と、その家と親密にしている人々の相関図。関係自体はシンプルであったとしても、その間の思いは複雑です。そんな思いの複雑さを自然に描くことで真相が巧みに隠されています。ミステリ的ゲーム性の維持と心理的描写のリアリティとのバランス感覚が絶妙な一冊です。オススメです。