『藤井寺さんと平野くん』(樺薫/ガガガ文庫)

藤井寺さんと平野くん 熱海のこと (ガガガ文庫)

藤井寺さんと平野くん 熱海のこと (ガガガ文庫)

 この作品は、坂口安吾のミステリ小説「投手殺人事件」「不連続殺人事件」から着想を得たフィクションです。
 実在の人物、団体等は一切関係ありません。
(本書p11より)

 古典文学を現代風ライトノベルへと生まれ変わらせるガガガ文庫の試み、いわゆる”跳訳”作品です。坂口安吾の2作品が元ネタとなっていますが、未読でも本書を楽しむには何の問題もありません*1。ただ、事前でも事後でも構わないので、併せて読めば面白さ2倍なのは保証致します。派手さこそありませんが、ミステリとしても青春小説としても野球小説としても読み応えのある作品です。
 『ファンタジーの文法』(G・ロダーリ/ちくま文庫)という本のなかで、再話というあそびが紹介されています。もとのおとぎ話をさまざまな認識の仕方でとらえ、あるいはよその土地にまったく移しかえることによって、古いおとぎ話から新しいおとぎ話をつくり出すあそび、のことです(『ファンタジーの文法』p122より)が、それはつまり、分析と統合・抽象と具象といった論理的思考と想像力とが協同する思考遊戯です。本書は、そうした再話の手法がふんだんに用いられているミステリです。
 大鹿煙(「投手殺人事件」で殺害された悲運の大エース)の孫である大鹿藤井寺さんは野球を観るのが大好きですが、その際に独自の記録を採っています。彼女はそれをスコアでも観戦記でもなく、注釈と呼んでいます。

「えっと、理念的には、原テキスト、というある体系があって、それに対置される背景、とか、文脈、とか、語彙、とか、現実、とか、そういう体系があって、この二つの異なる体系がどのように重なり合っているかあるいは異なっているか、つまりその対応関係を書いておく、ていうのが注釈でしょ。野球で言うと、四球はスコア上では全部おんなじだけど、攻めた四球なのか逃げた四球なのか、とか、あるじゃない」
(本書p37〜38より)

 そんな彼女が野球を楽しむようになった原点には、大投手であった祖父の存在と、その殺人事件があります。「投手殺人事件」として知られるその事件について、藤井寺さんや、彼女とたまたま野球場で知り合った本書の語り手にして主人公・平野くんや、かつて事件の捜査を担当していた元警部の居古井、名探偵・巨勢博士の孫・巨勢羽華世などが集まって、事件の真相についてもう一度話し合うことになります。これはもちろん、坂口安吾が描いた「投手殺人事件」を元にした再話ということになります。あとがきにもありますように、この再話は元の話にひとつの仮定を付け加えることによって空理空論性を新たに生み出したものです。そのため、あたかも『毒入りチョコレート事件』のような推理合戦が行われることになるのですが、如何せん決め手に乏しいものばかりです。それこそが本書の狙いでもあるわけです。
(以下、ネタバレって程でもありませんが既読者限定で。)
 藤井寺さんにとって、「投手殺人事件」は自分の祖父が殺された事件です。なので、本来なら祖父を殺したのは誰なのか? が興味の支点でなければならない、のかもしれません。しかし、彼女は野球好きであるがために、ちょっと意味合いが違ってきてしまっています。それに、本来彼女が野球に興味を持つようになったのも、大鹿煙という祖父の存在があったからこそ、でした。しかし、今では彼女はそんなことをあまり考えなくても野球観戦をとても楽しんでいます。なので彼女は、自分自身の野球を観る動機、「投手殺人事件」について考えるときの動機について疑問に思ってしまいます。そんな彼女に平野くんはさらっと語ります。

「どうでもいいんじゃないかな、動機なんて」
(本書p199より)

 この平野くんの言葉は、同じく坂口安吾のミステリ小説「不連続殺人事件」に着想を得たものだと思われます。

「そうですね。この事件の性格は不連続殺人事件というべきかも知れません。私がこれを後世に記録して残すときには、不連続殺人事件と名づけるかも知れません。なぜなら、犯人自身がそこを狙っているからですよ。つまり、どの事件が犯人の意図であるか、それをゴマカスことに主点が置かれているからでさ。なぜなら犯人は真実の動機を見出されることが怖しいのですよ。動機が分ることによって。犯人が分るからです」
(『不連続殺人事件』(坂口安吾/角川文庫)p180より)

 一見すると相反することを言ってるようにも思えますが、決してそんなことはありません。どちらも動機、心の動きに重きを置いているからこそ、一方にとってはどうでもよくて、他方にとってはとても重要なのです。つまり「不連続殺人事件」の再話なのです。そしてまた、藤井寺さん自身の過去と現在の再話でもあるのです。温故知新といいますが、古きをたずねることによって新しく知るのは何も知識ばかりではありません。だからこそ、空理空論はどこかに着地することを求められますが、それで良いのです。
 本書は元ネタとなっている安吾の作品を知らずとも十分楽しめます。ですが、本書のなかで藤井寺さん心が描いた軌跡と、再話の面白さを確認するためにも、元ネタとなった作品にも触れてみることをオススメしたいです。
【関連】『投手殺人事件』(坂口安吾/青空文庫)

不連続殺人事件 (角川文庫)

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ファンタジーの文法―物語創作法入門 (ちくま文庫)

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*1:ただし、私は両作品とも既読の状態で本書を読んだことは予めお断りしておきます。