イズミノウユキ「ヘブン・ノウズ・ハウ・ザット・ビジョン・イズ」を読んでの感想

ユリイカの記事を振り返って - ピアノ・ファイア
 というわけで、いまさらながらユリイカジョジョ特集号に掲載されたイズミノさんの論稿についての感想です(汗)。私は物語における”視点”というものに興味がありまして、イズミノさんの論稿もそうした観点・興味を中心に読ませていただきました。端的に言えば、「目で見て心で読む」が理論化された素晴らしい論稿だったと思います。
(以下、無駄に長々と。)
 小説で”視点”といいますと語り手の立っている立ち位置のことを言うのですが、しかしながらこの視点という概念はもともと美術用語です。そして、マンガは小説と違って文字だけではなくて絵も使って読者に物語を伝えてきます。したがいまして、マンガにおける視点の問題は、美術用語の視点と小説用語の視点と両方の意味合いを含むことになります。そして、それは別々に分析することができますが、しかしながら決して切り離すことができないものでもあります。なぜなら、小説における視点、すなわち語り手とは、見たこと*1を語るからこそ”語り手”です。そして、小説の場合には見たことが文字によって描写されることで伝達されますが、マンガの場合だと絵と文字によってそれがなされます。したがいまして、美術用語的な視点の分析がまずあって、それが小説用語的な視点の問題として読者の脳内でどのような物語を描くことになるのか、という手順を踏むのが正道だと思います。その意味で、イズミノさんの論稿もまた正道を行ったものだといえます。
 で、まずは美術的な観点*2からの視点の問題ですが、私が美術方面がまったく駄目なこともあって、これはもう「なるほど」と唸らされるばかりです(笑)。文字だけの小説とは違い、マンガには絵を使うことで読者に物語というイメージをより直接的に想起させる効用があります。ただ、絵だからといって物語で起きていること・作中人物が視たままのものがそのまま描かれているのかというと、コマの中の問題だけに限ってみても決してそんなことはありません。いろいろと読者を錯覚させる手法が用いられています。この辺りの哲学的な考察はネルソン・グッドマン『世界制作の方法』(ちくま学芸文庫)第五章とかが詳しかったりしますが、でも実作としてのマンガの方が全然先を行っていると思います(笑)。イズミノさんの論稿は、そうしたコマの中の問題ではなくてその外側の問題、すなわちコマ割りを重視して視点の問題を考察しています。読者の目に何が映っているのか。作者は何を見せようとしているのか。それがディオの「時を止める」能力に着目して時間との関係で語られていることがとても刺激的でした。私たち三次元の世界を生きている人間には四次元の軸である「時間」はどうすることもできません。それは作中の世界を生きているキャラクタも同じです。なので、コマの外による表現が模索されることになるわけです。コマ割りという外枠の操作によるメタな手法と効果、つまり神の視点からの表現手法です。コマ遊びというのは主にギャグマンガなどでたまに見受けられますが、ストーリーマンガでの表現手法としてのコマ遊びという考え方はとても新鮮でした*3
(もっとも、コマ割りや枠、あるいは枠外の利用については、枠を波線にすることで妄想を演出したり、あるいは枠外を黒にすることで過去の話であることを演出したりと、考え出すといろいろと面白そうなので、どうして読んでてそういう風に感じるのかも含めてこれからも頭の片隅で意識しながらマンガを読むようにしたいと思います。)
 そしたら次は小説用語としての視点の問題です。小説の視点・語り手は、一人称(語り手が物語の中にいる場合)と三人称(語り手が物語の外部にいる場合)とに大別されます。そして、その区別の基準は語り手の輪郭が見えるか否かという点に集約されます。そうした基準によりますと、登場人物の輪郭がすべて描かれているマンガは必然的に三人称ということになります。ただ、これは少々乱暴に過ぎる理解でしょう。小説における視点にしても、視たものと語るものとを区別する考え方が提唱されています。その点については廣野由美子『視線は人を殺すか』(ミネルヴァ書房)が詳しい*4のですが、外側視点の三人称であっても必要とあらば登場人物の内面にずかずか踏み込みますし、反対に一人称であっても語り手の見たことが削られて語られることがあります。語り手の視点と物語をつなぐ焦点があって、そしてその焦点は語り手の事情によって自由に移動します。その移動がストイックな場合もあれば節操がない場合もあって、それは作品やジャンルの性質ごとにまちまちでしょう。
 で、これと同じことはマンガにもいえます。マンガの場合は小説との対比では三人称ということになりますが、焦点というものを踏まえて考えると、文字だけではなく絵がある分*5、小説以上に多層的ではないかと思います。だから考え出すと私なんか頭がおかしくなってくるのですが(笑)、本稿ではやはり「神の視点」というひとつの捉え方が提示されているのでとても理解しやすいです。見るものと語るものは基本的には重複するものでしょうしね*6。ただ、「神」と一言で言っても、それは視点の立ち位置以外の意味や側面が当然あって、それが作品の主張やテーマにつながったりします。誰が語っているか? が、何を語っているか? に通じるのです。
 視点という問題意識でもって、美術的な「見た目」から入って、そこから物語分析的なテーマの問題にまで切り込んでいて、ジョジョ特集の論稿としてとても秀逸だったと思います。
世界制作の方法 (ちくま学芸文庫)

世界制作の方法 (ちくま学芸文庫)

視線は人を殺すか―小説論11講 (MINERVA歴史・文化ライブラリー)

視線は人を殺すか―小説論11講 (MINERVA歴史・文化ライブラリー)

*1:厳密には視覚のみならず他の感覚も含みます

*2:美術といいましたが、イラストの上手な人が必ずしもマンガが上手だとは限らないように、美術とマンガ表現とは必ずしも一致するものでないことは念のため付言しておきます。

*3:私の荒木割りについての認識はビジュアル的な興味以上のものではなかったので。

*4:もっとも、問題提起としての総論には共感できますが、それを使った具体的分析としての各論については私には踏み込みが浅いように思えて多少不満の残る内容ではありますが。

*5:もちろん、絵によって「語ってしまう」という弱点もあるでしょうが。

*6:ミステリだとたまに乖離していることがあるので困りますが(笑)。