『巨船べラス・レトラス』(筒井康隆/文藝春秋)

巨船ベラス・レトラス

巨船ベラス・レトラス

 文学を題材にした「メタ小説」2作が評判になっている。新鋭、佐藤友哉氏(26)の『1000の小説とバックベアード』(新潮社)はこのほど三島賞に決まった。またベテラン筒井康隆氏(72)の『巨船べラス・レトラス』(文芸春秋)は、『大いなる助走』(79年)以来28年ぶりに文壇をメッタ斬りにした長編。世代の異なる2作家の筆致から共に伝わってくるのは、現在の文学状況に対するもどかしさだ。
(中略)
 一方、筒井氏の『巨船――』では、若年作家のもてはやされ方やライトノベル量産による質の低下などの批判が出てくる。作家らが迷い込んだ巨船の中に作中人物や「筒井康隆」を登場させ、二重、三重のメタ構造の中に議論の形で危機感を浮かび上がらせる。
(2007年6月17日付朝日新聞朝刊22面 『メタ小説 現代文学の「危機」示す』より)

(以下、長々と)
 本書のタイトルである『巨船べラス・レトラス』の”べラス・レトラス”とは、スペイン語で純文学(文学)を意味します。その名の通り、本書は現在の日本の文学界の抱える現状と、著者自身が抱いている危機感とをメタフィクショナルに描いています。作家や編集者・雑誌の主催者、引いては著者である筒井康隆自身まで登場させて、作家としての現状の難しさだけでなく出版に関する経済的状況と、そのことが作家や作品に及ぼしている影響なども指摘しています。
 いわゆる文学がどのような危機に直面しているのか? ミステリやSFとかのいわゆるエンターテインメントに属するものばかり読んでいる者として、私にはいまいちピンとこなかったのですが、上記引用の朝日新聞文化欄の記事を読んでかなりの危機にあることを実感しました。
 本書を読まれた方ならお分かりでしょうが、本書において”ライトノベル”なる言葉は一度も出てきません。直接的な言葉が出てこないからといってそのことが触れられていないということにはもちろんなりませんが、しかし、私が読んだ限りではライトノベルを仄めかしているような言葉すら読み取ることはできませんでした(p166の”ヤング・アダルト文庫”くらい?)。他に「これがラノベのことじゃね?」というのを見つけられた方がいらっしゃいましたらぜひお教え下さい。
 そうでなくても、本書はタイトルの通りに純文学の危機を第一義的に描いてます。で、ライトノベルといってもいろいろありますが、大まかに言えばエンターテインメント、大衆文学・娯楽小説と呼ばれて純文学とは区別されるのが一般的な認識でしょう。ですから、本書のテーマからしライトノベル批判を読み取ること自体が非常に困難なのです。もちろん、本書は出版に関する経済的な問題といった広く出版に関わることを描いていますから、そういう意味でラノベについてもカバーしているとは言えます。越境問題も本書の視野には入っています。しかし、本書の対象として扱っているものは、まずは純文学です。文学とは何か? 文学とはどうあるべきか? 文学は本当に死んだのか? という問題があって、そこから、資本主義と作家との関係とか娯楽小説との越境とか古典の価値とか文化的ミームとかそういうことが論じられているわけです。そこのところをおざなりにして、”ライトノベル量産による質の低下”などを本書から読み取り記事として書くことに驚愕の気持ちを禁じ得ません。
 作中では、新書版(ノベルス)の乱発による質の低下は描かれています(p163以降)。しかし、ノベルス=ライトノベルじゃありません。ここから、例えばメフィスト賞批判を読み取るならまだ分かるのですが……。本書では文学とマスコミの関係についても述べられているのですが、そういったことをどう考えているのでしょうか? どうにも理解に苦しむ記事です。
 朝日新聞文化部が現在のライトノベルに対して反感を抱いていることはこの記事から読み取れます。それはそれで構いませんが、だったら、人のふんどしで相撲を取るようなことをせずに、ぜひ自分の言葉で語って欲しいものです。文学が置かれている危機的状況を謳った本書を利用してこうした記事が載ってしまうことこそ、まさに文学の危機的状況を如実に物語っているものだといえるでしょう。 

 このまま朝日批判で終わってもよいのですが(笑)、一応本書の内容とかにも触れておきましょう。相も変らぬメタで実験的な手法によって描かれている作品ではありますが、中身はとてもマトモというか真摯なものです。滅茶苦茶をやれと言われて滅茶苦茶をやるのはとても難しくて、滅茶苦茶なものを書くには過去の傑作を下敷きにしたりした方がやりやすい(p30辺りとか)といった主張はらしいといえばらしいのですが、そんな素直に言ってくれるとは思いませんでした(笑)。「君は自分の苦しみを客観視しなきゃならん。そこからが文学になる」(p139)とか言っておきながら、著者自身の体験である北宋社との著作権問題についてはそのまんま書いて私怨をぶちまけているのには爆笑しました。他の部分がメタフィクショナルで虚実がボンヤリしているだけに、この私怨部分の真実味が際立つのが上手いというか姑息というか(苦笑)。ちなみに、法律的な著作権問題に興味のある方にも本書はオススメです。著作権問題しか読みたくないという方はp175以降から読まれるとよろしいでしょう(笑)。
【関連】筒井康隆公式ページ−北宋社著作権問題
 余談ですが、出版界では版権という言葉をよく使うようですけれど、この言葉は現在では廃語です。昔は法律用語でしたが、その後”著作権”と改められて現在に至っています。にもかかわらず何ゆえ”版権”という言葉が用いられているのでしょうか? 私見ですが、著作権と出版権の概念の区別が曖昧というか無頓着なために、その両者を包含する意味で”版権”という言葉を用いているのではないかと思います。しかしながら、「版権がある」と主張しても法律的に無意味なことは上述の通りです。著作権という概念を徹底させたいのであれば、版権などという曖昧な言葉を使うのをやめるのも一つの手だと思います。
 閑話休題です。筒井ファンとしては、『大いなる助走(書評)』ほどの毒や爽快感は楽しめませんでしたが、切実さや奥深さはこちらの方が上だと思います。『虚人たち(書評)』で試されていた手法のいくつかも本書では用いられていて、そこに何ともいえない懐かしさを感じました。
 文学・文学論争には疎い私ではありますが、それでも面白かったですし、危機感もそれなりに共有できたと思います。広く小説・物語というものに興味のある方にはぜひオススメしたい一冊です。
【関連】朝日新聞に「ライトノベル学校で必要か」という投書が掲載される。 - 三軒茶屋 別館