古野まほろ『天帝のはしたなき果実』講談社ノベルス

 序盤はのだめと新城カズマ戯言シリーズと京極を足して6で割ったような感じ。音楽シーンはかなりリアリティがあり、トロンボーンがイロモノだとかトランペットがプライドが高いとか(参考意見byたけい)作者の実体験に基づいているのであろう、音楽経験者は楽しく読むことができる。
 ミステリー部分は、リドルあり、密室殺人あり、ダイイングメッセージと盛りだくさん。
 事件発生後は「事件よりもコンテストを優先」というミステリーでは滅多に見ない展開で意外性があった。謎解きの時点では「毒入りチョコレート事件」を思わせる推理合戦があり、また「解決した謎」に対するどんでん返しもありと結構基本に忠実なところがあり、ミステリーの基礎体力はあるのだろう。
 この物語が賛否両論あるのは上記のストーリィではなく、主人公の語り口調と過剰な衒学的表現によるものと思われる。
 確かに、読んでてややイタくなる口調や「おまえらどこの国の人間や!」と突っ込みたくなる外国古典の引用は読み手に違和感を与え読書のスピードを鈍らせる。
 とはいえこれはゴルゴンゾーラチーズの「におい」みたいなもので、ダメな人はダメだし逆にこの臭いがクセになる人もいるだろう。むしろこれだけ読者に違和感を与える「筆力」と言い換えることが出来る。舞城王太郎が句読点を極力排し流れるような文体で読者を一気に物語に引き込むのとはまったく逆の、しかしながら同程度のエネルギーがあるのかもしれない。
 ただフジモリの感想としては、「世界」の書き込みが不足しているため作品に移入できなかったという感がある。帝国時代で90年初頭と書かれていれば1890年代を想像するが、実際は帝国主義が現在も残っている架空日本の1990年代のことを言っている。しかしながらその「架空世界」に関する説明がほとんどないため、読者は「実世界」と「架空世界」の差異が認識できない。おまけに作中に「ハーマイオニー」とか「岸辺露伴」とか、あきらかに1990年初頭には存在しない単語(人物)の記載もある。(ハーマイオニーは1997年ハリーポッター初版、岸辺露伴は1999年時点で20歳であり「ピンクダークの少年」は90年初頭では連載されていない)。
 穿った見方をすれば、作者はわざと世界を書き込まなかったのかもしれない。フォーカスを主人公たち「キミとボク」に絞ることによる世界の希薄さを表現していたともいえよう。
 ミステリー、青春小説、SFとそれだけで小説が1作書けるだけのネタがこれでもかと詰め込まれた物語。ひとつのジャンルに当てはめることが出来ない小説であり、ライトノベル的な「カオス」を味わうことが出来る。個人的には、「セカイ系」を含め新本格以降の様々なムーブメントが詰められていると感じた。

 こんなところですかね。
 ジャンル論の話(特に最後のあれ)は、また後日語ります。
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天帝のはしたなき果実 (講談社ノベルス)

天帝のはしたなき果実 (講談社ノベルス)