歌野晶午『密室殺人ゲーム王手飛車取り』講談社ノベルス

 昨日アイヨシが書評した歌野晶午『密室殺人ゲーム王手飛車取り』についてフジモリなりの意見を。まさしく感想戦

【関連】 三軒茶屋別館 アイヨシのプチ書評『密室殺人ゲーム王手飛車取り』(歌野晶午/講談社ノベルス)

 完全ネタバレですので未読者の方は覚悟の上読み進めてください。


 作中で「密室とアリバイはトリック界の飛車と角」と言っています。では「王」とは?
 フジモリが思うに、「王」とは「自分自身」であり、アイヨシが「ヘボ将棋 王より飛車を 可愛がり」と言っている通り、作中の登場人物は「トリック=飛車」を「自身の正体や命=王」より重んじてしまう。
 つまり、「王手飛車取り」をかけられたとき、殆どの人は「王」を逃がしますが、「彼ら」は「飛車」を逃がした。
 そんなことをタイトルで表わしているのではないかと思いました。
 この作品、一見すると「トリックと解法の羅列による一種のバカミス」のように思えますが、実際のところ「インフレ化していくトリックに対する揶揄」だとか、「探偵と殺人者の漸近」とか、拾い上げると議論のネタになりそうな要素が散りばめられています。
 実はフジモリはこれが初・歌野晶午でしたが(そこ、どよめかない!)、他の作品も読みたくなってきました。
 ここからは余談。
 「両取り」って、厳密に言うと「2枚の駒のうちどちらかを取れる(可能性がある)手」であって、「両方同時に取れる手」という意味じゃ無いような気がしますが、そのへん真偽はどうなんでしょう?



>アイヨシです。ネタバレ注意報は継続中ですのでご注意下さい。
 余談について必要以上に真面目に答えます(笑)。
 両取りについて。将棋は互いに一手ずつ指すゲームなので、指摘の通り、「2枚の駒のうちどちらかを取れる(可能性がある)手」、というのが定義的には正確でしょう。で、王手飛車取りの場合、王が取れるのはあくまで可能性にしか過ぎず、飛車を逃がすなどというバカなことをしない限り取れません。登場人物たちはそんなバカばかりだったということになるのでしょうね。ってか、王が逃げれない手は王手飛車ではなく”詰み”ですからね(笑)。だから、兄だと思ったら〈044APD〉だったというのは、両取りというよりは、将棋の駒(王と金以外)には裏がある、がメタファとしては妥当かも知れませんね。指摘されて思いつきました(笑)。
 とは言え、王手じゃない両取りの一般論として、どちらかじゃなくて両方取れることももちろんあり得ます。それに「両取り逃げるべからず」という格言があります。両取りは仕方ないので他の手を探そうという意味です。両取りをかけられた側がこの格言を選択すると、両取りの種類によってはひょっとしたら両方取れるかも知れません。もっとも、相手が両取りを無視して指してきた手が非常に厳しかったりするとそれどころじゃなくなりますが。
 あと、両取りをかけたつもりがどっちも取れなかったという悲惨なケースもまたあり得ます。例えば、四間飛車の備忘録 課題の局面から新手が現れるも…に紹介されている2006年1月16日のA級順位戦・羽生×久保の棋譜です。第3図の一手前、後手の久保八段が△2八飛と打ち下ろした局面は、先手の2六角と7八金の両取りになってます。ところが何とこの後、両方の駒に逃げられてしまい、それどころか(後手から見て)自陣はボロボロ敵陣は鉄壁、という意味不明な事態に陥ります。ポルナレフならずとも信じられないものを見た気持ちになることでしょう(笑)。

 ってゆーか絶望した! 本書について、将棋用語的な観点からしか語ってないのにこんな文章量になっちゃって、さらに真面目にミステリ的観点から書評するとどんだけの量になるのか見当も付きません。絶望した!