『異次元を覗く家』(W・H・ホジスン/ハヤカワ文庫)

異次元を覗く家 (ハヤカワ文庫 SF 58)

異次元を覗く家 (ハヤカワ文庫 SF 58)

 本書は、1920年代に発表されたラヴクラフトの『クトゥルフ神話』より以前(1908年)に発表された作品ではありますが、『クトゥルフ神話』を彷彿とさせる超宇宙的なイメージが圧倒的な迫力で描かれていることから、コズミック・ホラーと同系列として知られている古典的傑作です。田中芳樹の『夏の魔術』の元ネタでもありますのでそっち方面からご存知の方もいらっしゃるかもしれませんね。
 本書は、怪奇小説の古典であるメアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』と同じく、作中内の手記によって恐怖体験が語られるという形式が採用されています。それは、やはり『フランケンシュタイン』に出てくる”怪物”と同じく、作品そのものをつぎはぎで作られた”怪物”とする方法である一方、解説で述べられているとおり、作者固有の世界に、すなわち作者が必要と認めた法則が現実のそれとはまったく別に作用する小説空間に、読者を引きずりこむための技術でもあります(本書p248参照)。
 手記とは、過去の体験記のことですから、例えば一日を振り返って書くのであれば、その日あったことを思い起こしながら手記としてまとめていくわけです。そうしますと、そのときリアルタイムに体験して実感した恐怖と、その体験を書きながら新たに思い知らされる恐怖という2種類の恐怖がハーモニーとなって読者に語られることになります。そうすることによって作品にも自ずと奥行きが生まれてきますし、その奥行きが作品世界を平面ではない立体的なものとして読者を捕らえていきます。
 余談ですが、ライトノベルに多く見られる冗長な一人称視点の語りというのはこうした手記の形式に近いものがあると思います。代表的な例として『涼宮ハルヒの憂鬱』がありますが、あの作品の語りは一見すると一人称視点によるリアルタイムの語りのようではありますが、よく読むとその瞬間の体験についての生(なま)の語りと、そうした自分を俯瞰的に語っている時差的な語りとが巧みに混ぜ込まれています(平たく言えばボケとツッコミのようなものです)。それもまた手記の形式と同じく、読者を作品固有の世界に引きずり込むための機能を果たしているのではないでしょうか*1
 閑話休題です。そうした手記の手法によって語られるある老人の記録。それは、アイルランドの森の奥にただずむ廃墟がかつて家だった頃の、夢とも現実とも判断のつかない怪異の記録です。地球を超え太陽系すらも超越した圧倒的なイメージの奔流。空間はどこまでも広がっていき、時間はどこまでも加速していきます。そこにあるのは人でも神でもない永遠とも思える刹那の愛。
 そうかと思えば、その家(まさに”異次元を覗く家”)の周囲に出没する不気味な豚人間による暴力による脅威によって老人は形而上的な概念とは甚だ無縁の現実的恐怖を味わわされることになります。そんな認識不可能だけど壮大な恐怖と、嫌でも認識してしまう矮小な恐怖のミックスがこの記録の正体です。ときに記録者には認識不可能な表現があるのですが、そうした箇所が注釈によって補われているのが巧妙でして、それによって手記であるにも関わらずある程度の客観性が生まれています。
 独創的で圧倒的な超宇宙的なイメージと恐怖の奔流ですが、そうした描写が巧みな技法によって支えられています。そんな表現と技術の両面に卓越した本書は、まったく古臭さを感じさせない古典であり、まさに傑作の名に相応しい逸品です。

*1:こうした観点から私小説ライトノベルの関係について考えてみるのも一興だと思っています。