『迷走パズル』(パトリック・クェンティン/創元推理文庫)

「あなたがた警察が、犯罪者とはどういうものかを見分けられないのと同じで、われわれも精神を病んだ人間がどういうものか、厳密にはいえません。正気かどうかは相対的な評価です。生きた脳を顕微鏡で見ることはできない。われわれの大前提は、患者のいうことを信じることです。時間をかけ、経験を積んで、本当の診断にたどり着くのです」
(本書p186より)

 二年前に劇場で起きた火災で最愛の妻を失った演劇プロデューサーのピーターは酒に溺れアルコール依存症で療養所に入院加療することになった。治療によって肉体的にも精神的にも少しずつ回復を見せた彼に、施設の所長からある相談が持ちかけられる。それは、施設内で最近起きている騒動について、患者同士の会話の中から様子を探ってみて欲しいというものであった。施設内での単調な生活から自分自身を救うためにも、ピーターは所長の頼みを引き受けることにするが、調べてみると、彼自身も含めて何人もの患者が「殺人が起こる」という予言を聞いたことが分かる。そして、とうとう実際に殺人が起きて……。といったお話です。
1936年に刊行された、クェンティンのパズルシリーズ第一作です。
 精神病療養施設が舞台で、主人公を含めて主要人物の多くが精神に障害を抱えた人物が多いということもあって非常にデリケートな題材を扱っている作品ではあります。しかしながら、特に精神病患者の危うさを描きながらもそれを過度に強調し過ぎることもなく、その弱さや脆さも描かれています。殺人事件の発生を受けて、警察は一旦は殺人狂による犯罪を疑います。ですが、「殺人狂は熟慮の上で人を殺したりはしない」(本書p75より)という療養所長からのフォローが入ります。また、催眠術についても「催眠術によって他人の倫理基準を乱し、暴力的な行為をさせるなど、馬鹿げた考え」(本書p144より)と一蹴されています。精神病療養施設を舞台とすることでミステリ特有の合理的思考が際立ったものになっているといえます。
 アルコール依存症による精神の不安定さを自覚しているピーターによる語りは、ある意味では「信頼できない語り手」による語りであるといえます。ですが、だからこそ、自己の世界のみならず他者の知覚とも照らし合わせることで周囲の状況を的確に把握することで社会性を獲得していく過程は、まさに推理によるリハビリだといえます。そんな主人公がついには事件について自らの推理を披露するまでに至る物語は、「自らを信頼できるようになるまでの語り手」の物語として理解することができるでしょう。
 犯人が実行したトリックそのものは脱力ものですが、犯人につながる伏線は巧妙に張られています。心の病から恋の病へと進展していくロマンス的展開も洒落てますし、ツイストの利いた解決シーンも面白いです。古くて新しいミステリです。オススメです。