『暴行』(ライアン・デイヴィッド・ヤーン/新潮文庫)

暴行 (新潮文庫)

暴行 (新潮文庫)

「ほかのやつに任せとこう。こっちにはやらなきゃならないことがある」
(本書p113より)

 原題は「ACTS OF VIOLENCE」。2010年度CWA最優秀新人賞受賞作品です。
 本書は1964年にニューヨークで実際に起きた「キティ・ジェノヴィーズ事件」をもとに書かれた作品です。クウィーンズ地区で28歳の女性キティ・ジェノヴィーズが惨殺されるのを38人もの人々が目撃しながらも、誰も警察に通報しようとしなかった事件。それが「キティ・ジェノヴィーズ事件」です。もっとも、その後の調査によれば、通報しようとした人も何人かいたらしいとのことですが、「傍観者効果(参考:傍観者効果 - Wikipedia)」という社会心理学用語を生んだきっかけとして、この事件は広く知られるようになりました。
 本書では、暴漢に襲われるキティ(キャット)の視点と、図らずもその傍観者となる幾人かの人物の視点という多視点からの描写によって語られる三人称多元描写が採用されています。余命少ない母親の看病とベトナム戦争への徴兵との間で揺れ動く19歳の少年パトリック。夫ラリーの浮気を疑うダイアン。ラリーの友人で家族がいる振りをしているトーマス。車で赤ん坊を轢いてしまったかもしれないと怯えるエリンと、彼女をかばおうとする夫フランク。初めてのスワッピングに夢中になっているピーター。自動車に轢かれた国語教師ヴァカンティと、彼の昔の”知り合い”である救急隊員デイヴィッド。
 キティが暴漢に襲われて死ぬまでの2時間の間、傍観者には傍観者の人生における苦悩と転機があったのだということが、多視点描写による群像劇の手法と淡々とした筆致とによって静謐に描かれています。そうした苦悩や転機といったものは、人と人とが関係を持ち、あるいはそれを深めることによって生じるものです。単に「都会人の冷淡さ」のひと言ではとどまらない、傍観者から関係者へと転じることの難しさというものが自然に描かれています。
 また、本書には警察官の視点描写もありますが、そこで描かれている警察官はいかにもな悪徳警官です。警察不信というのも1960年代のアメリカとこの事件を語る上で大きな要素です。第一通報者や第一発見者が疑われるのが捜査のセオリーである以上、仮に事件を目撃したとしても警察への通報が躊躇われるのは致し方のないことでしょう。「関係者となる」ことの重みというものが、関係しないことによって描かれている作品だといえます。
 「傍観者効果」自体は1964年の事件を受けて生まれたものですが、今のネット社会・高度情報化社会においては、多種多様な傍観が生まれているように思います。そういう意味では古くて新しい問題提起がなされている作品ともいえます。オススメです。