『そばもん ニッポン蕎麦行脚 8』(山本おさむ/ビッグコミックス)

いや…勝負師の心に波風を立てちゃいけねぇ。
棋士は異様なほど勝負に集中する。それは食事中でも休憩中でも途切れる事はねぇ。
そばを口にした時、「あれ?いつもと違う」なんて思われちゃいけねぇ。その途端、棋士の心に波風を立てることになる。
そばで手前が手柄を立てようなんて思っちゃいけねぇんだ。
(本書p18より)

 始めにお断りしておきますが、私は本作の1〜7巻を未読です。それが何ゆえ8巻だけいきなり読んで紹介するのかといえば、本書には棋士が登場するお話が収録されているからです。「いちばん長い日」(前編/後編)というお話です。千駄ヶ谷で30年間蕎麦を打ち続けてきた蕎麦職人。そして、その蕎麦を30年間注文し続けてきた将棋の棋士。高齢となった蕎麦職人は、その棋士が迎える大事な勝負の日を最後に店をたたむことにします。それが「いちばん長い日」です。
 その棋士は、20代で名人になった棋士。そんな棋士も大ベテランとなりA級からB級1組、そしてB級2組とランクを落とし、そして迎えた順位戦最終局。負ければB級2組からC級1組へ降級という一番。元名人がC級に落ちるかもしれないという状況に、周囲からは「負けたら引退か?」の声も出てきます。「将棋界の一番長い日」といえば、毎年3月始めに行われるA級順位戦最終局のことをいいます。A級という地位を巡る悲喜こもごもと、その頂点である名人への挑戦者が決まります。その決着は未明にまで及ぶことも珍しくなく、文字通り「長い日」となります。ですが、何もA級ばかりが順位戦ではありません。棋士一人ひとりが勝敗によって格付けされて順位が付けられるのが将棋の世界では、それぞれの棋士にとってそれぞれの順位戦最終日は、やはり長い一日です。
 長年蕎麦を打ち続けてきた職人と将棋を指し続けてきた棋士。住む世界こそ違えど「蕎麦」という接点によって、顔を合わせることはなくとも、二人には互いに通じ合うものがあります。そんな二人のそれぞれの「いちばん長い日」です。同じ物を作り続けること、同じ戦法を指し続けること。作者の山本おさむはかつて実在した棋士村山聖の生涯を元に『聖―天才・羽生が恐れた男』という作品を描いたことがありますし、将棋を指す棋士の姿を迫力十分に描いています。
 ちなみに、この棋士ですが、様々な要素がくっついているので一概には言えないものの、直近のモデルとしてパッと思い浮かぶのはやはり加藤一二三九段でしょう。加藤九段は蕎麦ならぬ鰻重一辺倒(ただし最近は寿司)の食事で知られる棋士です。その理由はというと、

 たとえば「食事は鰻重と決まっている」。
 かつては本当に鰻重一辺倒でした。NHKの番組で鰻はご飯と一緒に食べることが栄養学的にもよく短期間で元気になるということを紹介していて、わが意を得たりと思ったものですが、そもそもこの「鰻重伝説」の発端は、天ぷら定食を頼んだところ届かないことが二度あったこと。ご飯が届く届かないでイライラしても仕方がない。また、鍋焼きうどんなどは熱くて冷めるのに時間がかかります。限られた昼休みに食べるには時間がもったいない。そもそも、勝負中に、今日は何を食べるかを考えて気を散らすなら、最初から決めておいたほうが集中できるという考えからでした。
『老いと勝負と信仰と』(加藤一二三ワニブックスPLUS新書)p120より

ということで、やはり作中の理由とかぶります。それだけでなく、棒銀戦法を愛用し、元名人にして老いと戦いながら将棋を指し続け、順位戦で降級しても指し続ける姿もかぶります。作中の宇田川九段はB級残留を賭けての対局でしたが、加藤九段はC級1組に在籍しながらいまだに指し続けています。戦い続けています……。
 最後に、本書とは無関係ですが、蕎麦と棋士のこんなエピソードをついでに紹介しておきます。

 私は、親椀に八、九杯は胃の腑へ流し込んだであろう。だが、私の胃袋の面積は人間並みであるから馬や牛のようにはいけなかった。ところで驚いたのは、將棋の木村義雄名人である。いつまでも、食べやまない。結局一人で揚笊(あげざる)に山に盛った蕎麥切りを平らげてしまった。この量は私が食べた十倍はあるであろう。一体、腹のどこへ入るのか、胃袋の雑作はどんな風にできているのか、同座の連中名人の豪啖に悉くあきれてしまった。
 漫画の麻生豊画伯が、貴公どんな具合か腹を見せないかというと、名人は胸を開いた。一同これをのぞき込んだが、別段大してふくれてもいない。いまの一笊はどこへ入っているのであろうと思う。
 博士が、まだ一笊料理場の方にある筈だから、もう少しどうかな、とからかうと、
「もはや、叶わぬ」
 と、呟いて、名人は横に手を振った。
『食指談』(佐藤垢石/青空文庫)より

【関連】将棋棋士の食事とおやつ

聖―天才・羽生が恐れた男 (1) (ビッグコミックス)

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老いと勝負と信仰と (ワニブックスPLUS新書)

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