『チェスをする女』(ベルティーナ・ヘンリヒス/筑摩書房)

- 作者: ベルティーナ・ヘンリヒス,中井珠子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2011/02/26
- メディア: 単行本
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最初は『チェスをする女』というタイトルに違和感がありました。私は、チェスは”指す”ものだと思っていますし*1、実際、作中でも”指す”という表現が用いられています。なので、、余計にチェスを”する”という表現が最初は気になって気になって仕方がなかったのですが、読み進めていくうちに、チェスを”する”という意味がわかってきました。具体的にどの駒を動かせばよいのかまったく分からなくても、チェス盤に向かい駒を動かそうとする。そうした漠然としたものでありながらも強い気持ちを表わそうとする場合に、”指す”よりも”する”のほうが適切なのだと思います。
血液、精液、ワイン、尿、何がはねてしみになろうと、エレニの地道な手入れであとかたもなく消えた。目の前に現れたり消えたりするこういうものたちにエレニは名前をつけなかった。言葉、連想、思考の魔術的な力などあまり信じてはいなかった。どんなに的確だったとしても、言葉が世界の揺るぎない秩序を変えたためしなどない、と彼女は思っていた。言葉なんてせいぜいのところ暇つぶしにすぎない。ナクソスでは、言葉は絶え間ない流れにのって海や旅行客とともに行ったりきたりするものだ。
(本書p7〜8より)
そんなエレニでしたが、チェスと出会うことによって言葉、連想、思考の魔術的な力を実感することになります。読みと言葉の関係について、将棋棋士である藤井猛九段は次のようなことを述べています。
あと、将棋の読みは言葉です。手を読むのは頭の中で駒がUFOみたいに飛ぶわけじゃなくて、言葉で考えているんですよ。だから言葉が重要になる。僕の場合は読書をしたあとは手がよく読める。将棋と読書は脳の使う場所が似ているんでしょう。
『イメージと読みの将棋観2』(鈴木宏彦/日本将棋連盟)p79〜80より
エレニのチェスの師匠となる老先生クロスは本を友として生きてきました。人を読書より大切に思ったことはなく、読書と夢想にふけるために日常の仕事をさっさと片づける人生を歩んできた男、それがクロスです。ですが、図らずもエレニのためにチェス盤を買ったことをきっかけに、エレニのチェスの対戦相手となって彼女にチェスを教えることになります。
チェスを指す。ただそれだけのことが、ナクソスの狭い共同体の中では波乱を起こします。エレニは周囲から好奇の視線で見られ、夫パニスと不仲になります。そんな彼女の世俗的な苦悩、暗黙の掟に従わないがために村八分にされる彼女を悲嘆から救うために、クロスはひとつの名案をエレニに提示します。本書は主人公エレニを軸とする物語であることは間違いありませんが、その物語がエレニの老先生クロスと彼の旧友であるコスタの物語をも動かすことになります。そんな一連の手の流れが、チェスの妙味と同時に人生の妙味を思わせます。
チェスを指すことによってエレニの中に生まれる思考と想像力の奔流が、読者の想像力をも刺激します。巻末の訳者あとがきによれば作者はシナリオライターや映画製作者としても活躍中とのことですが、ナクソス島の風景や自然の情景がシンプルな描写の中から自然と浮かび上がってきます。ページにして189ページの短めの物語ですが、大事な思い出の品がしまわれている小箱みたいな一冊です。多くの方にオススメしたい傑作です。

- 作者: 鈴木宏彦
- 出版社/メーカー: 毎日コミュニケーションズ
- 発売日: 2010/05/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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