スポーツ漫画のメソッドで描くことの限界について考察してみる。 『バクマン。』13巻書評

バクマン。 13 (ジャンプコミックス)

バクマン。 13 (ジャンプコミックス)

 村田雄介『ヘタッピマンガ研究所R』が発売されました。
 28年前に出ました鳥山明同名のマンガを現代版にリメイクしたものですが、人物や背景の描き方など『バクマン。』で「マンガを描くこと」に興味を持った若人の受け皿として非常に有用なマンガであると同時に、冨樫義博島袋光年河下水希松井優征など、ジャンプで一戦級に活躍している漫画家たちのキャラクタやストーリーについての「頭の中」が覗けて「マンガを読む側」にとってもまた有益な一冊であることも確かです。「マンガ」に興味がある人は必読の一冊だと思います。
鳥山明のHETAPPIマンガ研究所 (ジャンプコミックス)

鳥山明のHETAPPIマンガ研究所 (ジャンプコミックス)

ヘタッピマンガ研究所R (ジャンプコミックス)

ヘタッピマンガ研究所R (ジャンプコミックス)



 閑話休題
 『バクマン。』13巻が発売になりました。
 週刊連載の方はこれからまたひとやまふたやまありますが、この巻はどちらかと言えば次への助走、中継ぎの巻。
 したがって細かなストーリーの考察や引用などはあまりありませんが、この際にこの『バクマン。』そのものについても私見交えながら考察してみたいと思います。

表現者と創造者

 前巻で「人気作家読切祭」にエントリーしたサイコー・シュージン。サイコーは、「この読み切りは自分一人で描きたい」と言い出します。
 これまで「作画」としてシュージンのストーリーに絵をつけてきたサイコーにとって、自身が一から物語を作るのは初めての経験です。
 前巻の書評でも書きましたが、「芸術家」は「創造者」と「表現者」という二面性を持ちます。
「創造」と「表現」 『バクマン。』12巻書評
 例えば音楽家は「作曲家」と「歌手、あるいは演奏家」とそれぞれが分担されていますが、パガニーニやリストのように優れた技巧を持ち他者が演奏できない曲を創造する音楽家もいます。
 また、「お笑い」というジャンルでは、基本的に「ネタ」を作る人と演じる人は同じ(あるいは作り手+表現に長けた相方のコンビ)ですが、この「創造」と「表現」にレベル差があると観る側としてはなにかしらもどかしい気持ちを受けることも確かです。
 そして、「漫画家」は「創造者」と「表現者」の両輪がうまく機能しないといけない芸術家のひとつであり、いかに高いレベルでそのバランスがとれているか、また逆に崩れているかが一つの個性だと思います。そして、『バクマン。』ではあえてその両輪を「原作(シュージン)」と「作画(サイコー)」のツーマンセル主人公にしている、というのはこれまでこの作品を読み続けてきた読者の方々でしたらお分かりになると思います。
 「表現者」が「自ら描きたいもの」を模索する今回の展開はまた、逆説的に漫画家という「表現者」「創造者」を明確化しているともいえるでしょう。

人気作家恋愛読切祭

 「恋愛もの」を描きたいと構想を練り出すサイコー。
 そして新年会で、読切祭にエントリーしている新妻エイジや蒼樹紅、福田真太などライバルたちも恋愛マンガを描こうとしていることを知ります。
 しかして、「人気作家読切祭」は「人気作家恋愛読切祭」となり、7人の作家が争うことになります。
 個人的には、今回の展開はスポーツ漫画(というかプロ野球)でいう「オールスター戦」のようなものだと思っています。
 ファンサービスに視点が置かれ、勝ち負けを重視するものではありません。
 実際、読切祭は新妻エイジや亜城木夢叶が破れる、という結果に終わります。
 上位だった平丸や蒼樹は連載化に向け再びライバルとなり、そしてまた二人は紆余曲折の後、おつきあいを始めることとなります。*1

「漫画」と「スポーツ」

 やや話はそれますが、『バクマン。』がヒットしアニメ化されるなどフィーチャーする一方で、アンチ『バクマン。』の漫画や発言など多々出ています。しかしながらこれは『バクマン。』という「王道」が世に出たからこそです。
 これは「プロ野球なんて結局金で良い監督と強い選手を集めれば(以下削除)」という発言のように、否定発言(=影)は光がないと存在できないのと同じかな、などと考えます。
 『バクマン。』そのものが「邪道な王道」作品でありながら、その「王道」があるからこそ「漫画本来の要素(=影)」が発言権を得る、というのは奇妙にねじれた面白い現象だと思います。
 とはいうものの、『バクマン。』は「漫画」という題材をスポーツ漫画のメソッドで描いたまさに「邪道の王道」漫画ですが、一方で「漫画」という題材と「スポーツ」の違い、そして限界を浮きだたせています。
 極私的な見解ですが、「漫画」と「スポーツ」の違い、ひいては『バクマン。』をスポーツ漫画のメソッドで描くことの限界である要素としては3つあると考えます。

1.「ゴール」の不在
2.「勝負」の不在
3.「ルール」の不在

 「ゴール」の不在。
 高校野球漫画では「甲子園に出場」あるいは「全国優勝」というゴールが明確ですし、変化球として「メジャーリーグに入る」「お金を稼ぐ」などの目標があります。
 サッカーにしてもアメフトにしてもテニスにしても同様で、「全国優勝」こそが主な目標であり、非常に分かりやすいです。
 一方、「漫画」では明確な「ゴール」は設定しづらく、だからこそ「ジャンプに連載、アニメ化」というある種「ちょっと昔の」ゴールを物語に設定した『バクマン。』は度胸があると思います。
 そして、「勝負(=勝ち負け)の不在」というのもあります。
 アンケート結果や「人気漫画読切祭」の順位などで「勝ち負け」を演出していますが、実際には漫画に勝ち負けなどありません。
 どちらかといえば『のだめカンタービレ』のように、「努力しても努力しても遙か彼方に先人が存在する道を、なぜ私たちは歩んでいるんだろう?」という芸術家の悩みに近いものがありますし、これもまたあえて「スポーツ的な(そして、少年漫画的な)」わかりやすい勝ち負けに落としこんだところが『バクマン。』のおもしろさでもあります。
 最後に、「ルールの不在」。
 「漫画」は当たり前ですがスポーツではないので、明確な「ルール」が存在しません。
 先ほどの「勝ち負けの不在」に通じるものがありますが、「なにをもって「勝ち」「負け」とするか?」も不明確ですし、「なにをもって「勝負」とするのか」という根本的な問いもあるでしょう。
 そしてまた、ルールがない以上「なにが正しいことか?」という問いも発生します。
 勘の鋭い方はお気づきになられたかもしれませんが、この巻の最後で登場した漫画「シンジツの教室」とその作者が次巻で問いかけるものこそが、ここで語っている「なにが正しいのか?」というまさにこの「ルール」についての問いです。
 次巻では連載中にかつてないぐらい「賛否両論」出た、作者にとってはまさに「計算通り」のエピソード。
 この巻での凪が嘘のように暴風雨巻き起こる14巻であり、フジモリとしても書きたいこと語りたいこと満載の次巻、楽しみに待ちたいと思います。
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*1:余談ですが、連載中にこのエピソードを読んだときに、こうやって「登場人物をまとめにかかる」のは風呂敷を畳み始めるのと同じように連載終了の兆しかなぁ、などと勘ぐったりしてました(笑)。