エア彼女オーディションと幻覚妄想大会

曲矢さんのエア彼氏 (ガガガ文庫)

曲矢さんのエア彼氏 (ガガガ文庫)

 『曲矢さんのエア彼氏』(中村九郎ガガガ文庫)は、いわゆる脳内彼氏や脳内彼女=エア彼氏やエア彼女といったものを現実の存在として実感できちゃうイタタな登場人物たちが繰り広げる妄想ラブ=コメディです。主人公の木村カントはエア彼女オーディションに出場するためにエア彼女であるバスケ子先輩のイメージや設定を作り上げて、審査員の前でエア彼女を披露することになります。何をいってるのか分からないかもしれませんが、兎にも角にもそういうお話です。
 ところが、「事実は小説より奇なり」ではありませんが、これに近いといいますか似て非なる大会が実際に行なわれています。それが、北海道浦河にある精神障害等をかかえた人たちの地域活動拠点「べてるの家(参考:べてるの家 - Wikipedia)」で行なわれている「幻覚妄想大会」です。精神科医療において、幻覚や幻聴は見えてはいけないもの・聞こえてはいけないものとして否定され、十把一絡げにそれらが何とか見えなくなるように・聞こえなくなるようにという治療の対象として扱われます。なので、それらの細かい内容についてはあまり語れることはありませんでした。
 しかし、べてるの家では、なくならない幻聴に対して、それならいっそのこと幻聴と仲良く暮らすことはできないかと考えられて、そうして生まれたのが「幻聴さん」です。また、頭の中に浮かぶネガティブ思考全般は「お客さん」と名付けられました。さらには、自らの病気について自分で診断して自分で名前をつけるという「自己病名」まであります。例えば、「統合失調症・幻聴さんと私の共依存タイプ」「全力疾走型」「ふわふわ型」「完璧追求型NOといえないタイプ」などです。そうやって自己の幻聴や妄想と向き合って細かに分析することで明らかとなった幻聴像・妄想像といったものを発表する場として設けられているのが「幻覚妄想大会」です。

 べてるの家といえば、かつては幻覚妄想大会だった。精神障害の当事者が顔を出し、名前を名乗って自らの幻覚や妄想を語る。しかもそれを大会で競うという奇抜なイベントに世間は虚をつかれ、やがて喝采を送るようになった。実際、第一回幻覚妄想大会グランプリの「窓から緑色の牛がやってくる」妄想や、その後の「宇宙船搭乗記」、「小泉総理との恋」や「悪魔と戦うヒーロー」など、ありえない話がありえたこととして語られる妄想の世界の豊穣さを、参加者は毎年の大会で堪能したものだ。一人ひとりの妄想はそれだけみているとじつにつまらないのに、みんなで寄せあってみるとたまらなくおもしろい、それをべてるの仲間うちだけにしまっておくのはもったいないとはじまった幻覚妄想大会は、精神病、特に統合失調症という病気のスティグマを吹きとばし、病気と絶妙な距離を置きながらかかわる画期的な試みとして、いまなお多くの話題を生み続けている。
『治りませんように――べてるの家のいま』(斉藤道雄/みすず書房)p138より

 自らの苦悩や苦労をユーモアに転化するという発想の豊かさと強かさにはただただ驚きです。
 そんなわけで、「エア彼女オーディション」と「幻想妄想大会」は、ともに妄想を披露する場としては似ているかもしれませんが、本質的には全然違います。なので、単なる思い付きからこんな風に両者を結びつけて紹介するのは両者にとってあまりよろしくないことなのでは……?とも正直思ったのですが、しかし、普段の私であればこれだけの共通点が見受けられる以上躊躇なくネタ記事にしているであろうものを、何故今回に限って躊躇するのかといえば、やはり精神障害というデリケートな問題に対しての配慮がありまして……。といえば聞こえはいいですが、裏を返せばとっつきにくいというかあまり関わりたくないというか、そういう気持ちの表れではないのか?とも思い直しまして、本文のようなあっさり風味の記事に仕立て上げてみました。
 ただ、エア彼女と精神障害の幻聴・妄想は確かに本質的に異なりますが、だからこそ、両者が似ているという点にあえて着目してみるのも面白いと思うのです。作中において、エア彼女やら彼氏やらが見える木村たちは特に精神障害者として扱われたり生きているわけではありません。ですが、それでも彼ら彼女らは他の人たちとは違う世界を生きていて、他の人たちには通用しない言葉を交わし、他の人たちの意思の疎通がときに成立していません。こうした小説に触れますと、果たして「普通」とは何かということについて考えざるを得ません。なので、『曲矢さんの〜』がどういう意図で書かれたものなのか私にはさっぱり分かりませんし、そんなのそもそもどうでもいいですが(笑)、うつ病が現代病とされる昨今、そういう見方・読み方があってもいいかと思ったり思わなかったりです。
 ちなみに、上記記事の「幻想妄想大会」についての記述は、主に『治りませんように――べてるの家のいま』(斉藤道雄/みすず書房)を参考にしましたので、興味のある方は読んでみればいいと思うよ。
【関連】
『曲矢さんのエア彼氏』(中村九郎/ガガガ文庫) - 三軒茶屋 別館
『治りませんように』(斎藤道雄著、みすず書房) - 障害・介助・ベーシックインカム
べてるねっと

治りませんように――べてるの家のいま

治りませんように――べてるの家のいま