『はなれ銀 成駒の銀蔵捕物帳』(井川香四郎/時代小説文庫)

はなれ銀―成駒の銀蔵捕物帳 (ハルキ文庫 い 10-3 時代小説文庫)

はなれ銀―成駒の銀蔵捕物帳 (ハルキ文庫 い 10-3 時代小説文庫)

 前巻『金底の歩 成駒の銀蔵捕物帳』に続くシリーズ2冊目です。いや、まさか2冊目が出るとは思ってなくて正直油断してました(汗)。二転三転する複雑なプロットと将棋好きの岡っ引きという主人公の特徴の取り合わせが、単なる人情ものとは一線を画した独特の雰囲気を醸し出しています。

離れ銀

「遮二無二に下手人を追うことをせず、目先に囚われずに、じっと身構えていた……まさに”離れ銀”のようにな」
(本書p72より)

 表題にもなっている離れ銀ですが、生憎と私はそのような将棋用語を聞いたことがありません。『日本将棋用語辞典』(荒木一郎,原田泰夫/東京堂出版)にも載ってませんし……。どなたか用語の出典をご教示いただければ幸いです。
 まあ将棋用語としてというよりは、銀蔵という主人公のとった行動を説明するための言葉として理解した方がどうやらよさそうです。また、この言葉からも何となく読み取れることとして、銀蔵は確かに主人公であり「指し手」ではあるのですが、それと同時にひとつの「駒」でもあるという視点からも描かれている作品が本書には多いという印象を受けます。そこが前巻とは違う点だと思います。

千日手

 お互い居飛車で、王を囲みながら、銀を先鋒として早い段階で攻め合ったが、鏡に映したような陣形となり、ふたりとも押し黙ったまま睨み合いとなった。同じ手を永遠に繰り返す”千日手”に陥ったのである。
 その際は、攻め方が手を変えねばならないし、どっちが攻め方か分からないときは、仕掛けた方が手を変えなければならない。
(本書p103より)

 現在の将棋のルールでは、千日手千日手 - Wikipedia)は先後を入れ替えて指し直し(ただし連続王手の千日手の場合は王手をかけている側が手を変えないと反則負け)、そうしたルールになったのは大正時代になってからで、それまでは仕掛けた側、つまり攻め方が手を変えなくてはならないとされていました。なので、江戸時代が舞台の本書の場合ですと上記のような千日手の理解で正しいということになりますが、現代のルールとは異なりますので念のためご注意を。
 手詰まりの感もあった局面を動かすことになる意外な一手は攻め方のうかつな一手であった、ということで、錯綜しているプロットが千日手という言葉(ただし昔のルールに準拠)に端的に表れているといえるでしょう。

遠見の角

「こいつな、『遠見の角に好手あり』って奴だ。一見利いていないような角でも、攻められる方は受けづらいもんでな。後々、利いてくるのだが、術中にはまれば見事にやられる……奴らは、予め遠くからじっくり狙いを定めていて、目先の駒……つまり千吉の動きに惑わされて、自陣に敵の飛車角を入れてしまった」
(本書p198より)

 「遠見の角」の説明自体はまあよいのですが、それと作中の出来事がうまく噛み合っていない気が。つまりは、「遠見の角」という将棋用語が本作ではあまり上手に活かされていないということだと思います。本作における「角」は誰かといえば、結局はやはり銀蔵ということになるのでしょうが、それにしては銀蔵はあまりに近い場所にいますからね。

玉腹に銀

「玉腹の銀とは、敵を追うときに、性急に迫るのではなく、一手ためて、より厳しく迫るというものだ……だが、これが吉と出るか凶と出るかは、まだ誰もわからぬ」
(本書p284より)

 「玉の腹から銀を打て」。単に「腹銀」ともいうこともありますが、相手の玉の真横に銀を打つ手は、直接の王手ではありませんが次に厳しい狙いを持った一手となることが多いため、終盤の手筋として広く知られています。もっとも本作の場合、腹に銀を打たれるのは銀蔵です。
 前巻は捕物帳でありながら将棋小説としての色合いもかなり濃かったですが、本書では将棋の表現・用語による描写がそこかしこに散見されつつも、将棋小説というより捕物帳としての色合いが濃くなっています。また、前巻では心底情けなかった新米同心の小見ですが、本書ではそれなりに成長を見せてきて、それと反比例するかのように銀蔵の弱さが描かれています。優れた将棋指しであっても次の手に迷うこともあれば悪手を指してしまうこともあるわけで、前巻とは違ったそんな面白さが本書にはあると思います。
【関連】『金底の歩 成駒の銀蔵捕物帳』(井川香四郎/時代小説文庫) - 三軒茶屋 別館