『喜劇悲奇劇』(泡坂妻夫/創元推理文庫)

喜劇悲奇劇 (創元推理文庫)

喜劇悲奇劇 (創元推理文庫)

 きげきひきげき。逆さに読んでも、きげきひきげき。その奇妙なタイトルが示しているように、本書は回文に満ちたミステリとなっています。
 目次は「序章 今しも喜劇」からはじまり「終章 喜劇も仕舞い」で、両者をつなげれば回文となります。その間に挟まる章題も、「豪雨後」「期待を抱き」「ウコン号」などなど、すべて回文となっています。本文も「台風とうとう吹いた。」で始まり、登場人物も回文の名前を持つ者ばかりです。まさに「回文殺人事件」です。「泡坂妻夫」というペンネームは本名「厚川昌男」のアナグラムなのですが(参考:泡坂妻夫 - Wikipedia)、そんな作者らしい言葉遊びに溢れています。
 泡坂妻夫といえば奇術愛好家としても知られていますが、本書の主人公は奇術師で、作中で発生する事件のトリックについても奇術を元にしたトリックが多数用いられています*1。いろんな意味で泡坂妻夫らしさが堪能できる一冊だといえます。
 本書の巻末には新保博久による解説が付いています。もともと角川文庫版*2に付されていたものが好評を博したということでそのまま収録されている、とのことですが*3、それだけのことはあります。本書の魅力や特徴といったものが過不足なく述べられていて、まさに解説のお手本とでもいうべきものとして評価してよいと思います。なので、それを読んでしまった後となっては、私の方から付け加えることなど特にありません(トホホ)。
 それでも重複を恐れずにあえて本書について語るとすれば、ミステリと回文はその構造が似ているという点は強調しておきたいです。つまり、過去に起きた事件が探偵によって再構成されるその過程は逆算的であって回文的だといえます。もちろん本書はその点について自覚的な構成となっています。フラクタルの図形のように、全体を見ても細部を見ても回文的な構造が楽しめるのが本書の面白さだといえます。
 そうしたミステリとしての回文的構造の面白さの一方で、主人公の楓七郎は飲兵衛のしがない駄目な奇術師で去られた女房に未練たらたらです。その女と〈ウコン号〉の中で期せずして再会することになるのですが、元に戻らないようで戻るようなもどかしい男女のやりとりがストーリーの主軸となっています。そんな構造とストーリーとが互いに引き立て合うことで本書を奥深いものにしている、ということがいえると思います。
 ただ、そもそもの事件の発端である一座の過去のエピソードについては個人的にはドン引きです。とても許容できないと同時に、本書の知的遊戯としての性質とも不協和音を生じさせているような気がして、それが少々不満というかやりきれない思いが拭えません。
 「回文殺人事件」の試みとしては、本書へのリスペクトとしてさらに上をいく『喜劇ひく悲喜劇』(鯨統一郎/ハルキ・ノベルス)という作品があるとのことなのでそちらも是非読んでみたいですが、その先行作として紹介しておかないわけにはいかない一冊でしょう。

*1:そういえばトランプ(カード)は上下を逆さにしても同じですね。

*2:そもそも本作は1982年にカドカワノベルスから刊行された作品です。

*3:『ミステリ解読術』(新保博久河出書房新社)にも収録されているとのことです。