『泣き虫しょったんの奇跡 完全版<サラリーマンから将棋のプロへ>』(瀬川晶司/講談社文庫)

文庫化はとても嬉しいことでした。出版界の詳しいことはよく分りませんが、単行本はいずれは本屋から完全に消えてしまうそうです。しかし文庫は本屋での居場所ができて後世に残るとのこと。
この本は僕の大切な人ばかりが出てくる大好きな本なので(自分で言うのも何ですが)、本当によかったと思います。これも単行本を買って頂いた方々のおかげです。ありがとうございます。
お知らせ!! 瀬川晶司のシャララ日記/ウェブリブログより

 本書は、瀬川晶司(ブログ:瀬川晶司のシャララ日記)が、子供の頃に将棋と出会ってから、紆余曲折を経て、ついにはプロ棋士になるまでが描かれた自叙伝です(文庫化に際して、フリークラスから順位戦に参加するまでの「第六章 棋士」が加筆されています)。
 <サラリーマンから将棋のプロへ>という副題ではありますが、サラリーマンがプロ棋士になった、というような単純な経緯ではありません。瀬川は小学5年生で将棋に夢中になり、6年生でプロ棋士を志します。そして、中学3年生で中学生選抜選手権大会で優勝してプロ棋士の養成機関である奨励会に入会しますが、「26歳までにプロ棋士として認められる四段に昇段できなければ退会」という奨励会の年齢制限によって一度はプロへの道を絶たれます。
 そもそも奨励会に入る前、中学生選抜選手権大会までの過程も相当に厳しく険しいものではあるのですが、そこから奨励会に入って惑い燻りついには年齢制限によってプロへの道を絶たれるまでの経緯には読んでてかなり辛いものがあります。

 ある席で、何人かのプロ棋士が談笑していた。奨励会員もいた。誰かが面白い冗談をいった。その場のみんなが笑った。奨励会員も笑った。すると、あるプロ棋士がいった。「君は笑うな」と。奨励会員は人間じゃない、だから笑う資格がない、というのだ。
(本書p145より)

 おそらくはその奨励会員に対して奮起を促すための言葉だとは思うのですが、しかしながら、勝者と敗者が存在するのが勝負の世界。無念にも敗者の立場に立たされてしまった者、結果というアイデンティティが得られなかった者にとっては、さぞ辛い言葉でしょう。将棋漫画『ハチワンダイバー』の主人公である菅田もまた奨励会を年齢制限によって退会した過去を持ちプロ棋士への劣等感を抱えてますが、それもごく自然なことだと思わされるエピソードです。奨励会員は一般人から見れば人間離れした将棋の強さを持っていますが、棋士からは人間扱いされず、いずれにしても人間とはいえないとても中途半端な存在です。そんな状態で奨励会を退会となり将棋というメジャーを外されてしまっては、生きる目標を見失うのも将棋と完全に決別しようとするのも無理のないことだと思います。
 そうした無為の生活から少しずつ脱却しだした瀬川は、やがて再び将棋を指そうと思うようになります。プロになる夢を絶たれた後も将棋を指すのは未練がましいのではないのかと感じつつ、それでも彼が将棋を指すようになったのには、奨励会を退会してからアマチュアに対しての見方が変化したことにあります。

 正直にいえば、プロ棋士奨励会員のなかには、アマ強豪をどこか煙たがる気分がある。いや、少なくとも僕にはあった。いまさらプロになれるわけでもないのに、こんなに一生懸命勉強してどうしようというのか。趣味なら趣味らしく、適当にやればいいじゃないかと。
 そんな見方はまちがっていたと僕は思った。
(本書p245より)

 多くのアマにとってプロは雲の上の存在です。しかし、プロ棋士という存在は将棋を趣味として嗜んでいるアマチュアの存在があってこそ成り立つ職業です。なればこそ、「趣味は将棋です」という人が一人でも多いほうがいいわけです。そういうわけで、再び瀬川は将棋を指し始めます。大学生となりサラリーマンとなった間も将棋を指し続け、アマ名人戦で優勝します。そして、アマ名人戦になったことでプロ棋戦・銀河戦への出場権を得た瀬川はなんとプロ相手に七連勝を記録するなど”プロ殺し”の異名で呼ばれるほどの活躍を見せます。
 プロのときよりも勉強時間は減ったにも関わらず結果が残せるようになった理由として、瀬川はメンタル面を挙げています。

 奨励会時代のプレッシャーから解き放たれた僕は、指したい手を伸び伸びと、思いきり指せるようになった。それが僕に、将棋の楽しさを再発見させた。だが楽しんで指すということは、勝負という観点からは決してプラスではないと僕は思っていた。やはり奨励会のときのように自分を殺して指さなければ、アマにはともかく、プロには勝てるものではないと。
 ところが、そうではなかった。楽しんで指すほうが、むしろ勝つ確率も高くなることに、僕はきづいた。
(本書p261〜262より)

 対プロ戦の勝率7割という数字(17勝6敗)を手にした瀬川は、周囲の熱心な支えもあって、ついにプロになる意志を表明し、日本将棋連盟にその旨を申し出ました。その後に行なわれた特例によるプロ編入試験は「サラリーマンの挑戦」として大きな注目を集めました。それが決して間違いというわけではありません。サラリーマンとして安定した生活・収入を捨ててプロ棋士の夢に再び挑むというのが一大決心なのは確かです。しかし、それまで瀬川が奨励会員としてプロを目指し、退会してからもその呪縛に苦しんでいたことを考えると、それは夢への再チャレンジであり、ひいては「奨励会」というプロになるまでの制度との戦いだったと捉える方が妥当でしょう。
 本書のタイトルには「奇跡」とあります。瀬川晶司という個人の視点から見れば、特例によるプロ編入試験の実施とその合格は奇跡だといえるでしょう。しかし、そもそもプロとは何か?という大局的な視点から見れば、瀬川問題の発生と、それをきっかけとした編入制度の制定は必然であったといえます。実力のあるアマには年齢に関わらずプロになるための門戸を開く。それによって実力本位のプロ棋士の存在意義は担保されます。また、それまでプロ棋界とアマ棋界はパラレルな存在でしたが、編入制度ができたことによって両者に接点が生まれました。これによって、例えば中学・高校を舞台とした将棋漫画もかなり描きやすくなったと思います(←真面目な話です。こういうのは決して馬鹿にならないと思います)。
 瀬川晶司という棋士の自叙伝として、あるいはプロ編入制度という棋界の一大改革のきっかけとなった出来事の経緯が記されたものとして、将棋ファンのみならず多くの方にオススメしたい一冊です。

【関連】
瀬川晶司 - Wikipedia
瀬川晶司氏にプロ編入試験を実施 - 勝手に将棋トピックス
瀬川晶司氏のプロ入りについて日本将棋連盟が特例の編入試験を行なう際に発表したお知らせ)
日本将棋連盟 編入制度(日本将棋連盟)(瀬川四段の特例試験を経て制度化されました。)
最高の一日 瀬川晶司のシャララ日記/ウェブリブログ
第81期棋聖戦:瀬川晶司四段×中座 真七段(瀬川、フリークラス脱出)第81期棋聖戦の主な棋譜再現一覧より)
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