『ジャンピング・ジェニイ』(アントニイ・バークリー/創元推理文庫)

ジャンピング・ジェニイ (創元推理文庫)

ジャンピング・ジェニイ (創元推理文庫)

 探偵の仕事では、ロジャー・シェリンガムは自分の限界をよく知っている。事実にもとづく論理的推理も不得手ではないが、性格から推理を展開する能力こそ自分の大いなる強みであることを、彼は承知している。また自分がけっして完全無欠ではないことも十分自覚している。実際の話、彼が完全に間違っていたことが何度もあった。しかし、それで挫けてしまうようなことはなかった。(中略)人生における三つの主要な関心事――犯罪学、人間学、うまいビールがあれば、それで十分彼は幸せなのだ。
(本書p13〜14より)

 国書刊行会から刊行されていた作品が東京創元社で文庫化されました。『毒入りチョコレート事件』などで名高いバークリーの作品が文庫化されて気楽に読めるようになるのはとても嬉しいです。
 屋上の絞首台に吊るされたわら人形、”縛り首の女(ジャンピング・ジェニイ)”。それは本来、小説家ロナルド・ストラットン主催〈殺人者と犠牲者〉パーティの悪趣味な余興に過ぎないはずだった。しかし、宴が終わろうとする頃、そこにはわら人形の代わりに本物の死体が吊るされていた。自殺か?それとも……。誰からも嫌われていた女性の不審な死に、探偵ロジャー・シェリンガムは独自の捜査に乗り出すが……といったお話です。
 有名な殺人者に仮装したパーティーという趣向自体が悪趣味ですが、そんな悪趣味さが、本書における通常の探偵小説とは異なる倫理観、価値観に基づいた展開の船頭的役割を担っています。いやはや、本書の展開と結末に比べれば、この程度の悪趣味さなどなんということありません。シェリンガムのことを本当に探偵と呼んでいいのかとても疑問です(苦笑)。ちなみに、パーティー参加者が扮装している殺人者については、巻末の訳者あとがきで説明が付されていますので、興味のある方はそちらに目を通してから読まれるのがよいでしょう。
 「わら人形論法(ストローマン)」といわれる論法があります。

ストローマン(straw-man)とは、議論において対抗する者の意見を正しく引用せず、あるいは歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す。語源は仕立て上げられた架空の存在を藁人形に見立てたことから。そのまま直訳してわら人形論法ともいう。
ストローマン - Wikipediaより

 本書は、そうした「わら人形論法」がふんだんに用いられています。
 被害者(?)であるイーナは注目を集めるためにあれやこれやとわめきたてますが、それはまさに「わら人形論法」によって自らの首を絞めたといえます。また、事件発生後にも「わら人形論法」が錯綜します。一見すると論理的なようでありながら、実のところ事実認定が不明確なまま推論が語られる「わら人形論法」の応酬による事態の混迷そのものが本書の読みどころです。
 本筋とは関係ありませんが、「(ところで、誰がその犯罪を犯したか全然知らなくても、事後従犯ということになるのかな。こいつは興味深い問題だ)」(本書p241より)とありますが、こうした問題提起は、見ず知らずの他人が行なった著作権違反行為について幇助の罪に問われたWinny裁判を思い起こさせます*1。罪と人との因果関係についてさまざまな観点から考察しているからこそ生まれる問題意識です。悪趣味さは自由な発想の裏返しでもあります。お話の中だからこそ楽しめる殺人物語、それこそが探偵小説の醍醐味ですよね。



(以下、既読者限定で。)
 ちなみに、本書では、実はフィリップによる殺人行為が行なわれていたことが読者には示されます。視点人物であるシェリンガムはそのことを知らないまま事件の推理と解決に臨んでいます。そのため、真相を知らないままに的外れかと思えばほぼ真相に近い推理をしているシェリンガムの右往左往する様を読者は楽しむことになります。ですが、最後の最後になって驚愕の真相が示されます。それは、フィリップによる殺人行為は未遂に終わっており、事件の真犯人は別にいた、というものです。「わら人形の法理」*2と呼ばれる法理があるのですが、読者との関係において、フィリップの殺人行為は見せ掛けの真相、つまりは「わら人形」だったということになります。わら人形を介在させることによって、シェリンガムのみならず読者もまた真相を知らないまま一喜一憂させられていたわけです。実に憎たらしい構成ですね(笑)。

*1:一審では有罪でしたが二審で逆転無罪となりました。検察が上告しましたので最高裁の判断が注目されます。

*2:「わら人形論法」とは別物ですのでご注意を。