秋期集中講義 よくわかる「物語工学論」(その8:補講)

物語工学論

物語工学論

これまでの講義はこちら。
0.「物語工学論」概論(9/7講義)
1.さまよえる跛行者(9/10講義)
2.塔の中の姫君(9/15講義)
3.二つの顔をもつ男(9/19講義)
4.武装戦闘美女(9/23講義)
5.時空を超える恋人たち(9/27講義)
6.あぶない賢者(10/3講義)
7.造物主を亡ぼす男(10/7講義)



10/7をもちまして「秋期集中講義 よくわかる「物語工学論」」は終了しましたが、今回は補講という形で「物語工学論」について3点補足したいと思います。

物語とは何ぞや?

「物語工学論」を語る上で、「物語とは何か」について自問するのは必然の理かと思います。
新城カズマ『物語工学論』では巻末に補章という形で「物語とは何か?」というタイトルで語られています。ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を模したかのような人を食った語り口は新城カズマ節全開という感もしますが、書かれている内容については非常に興味深いです。
論理哲学論考 - Wikipedia
例えば書評家の千野帽子は「物語」を「認知のスキーム」とし、受け手が「因果」を理解するために「思考のショートカット」として「物語」を組む、といっています。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090929/205761/*1
新城カズマはそこまで踏み込んだ定義をせず、いわゆる「エンタテイメント」を意識した物語の認識をしていますが、明確なルールとしては、
「終わりがあるのが物語」
と定義しています。

「終わりがある」というのが物語の特徴の一つといえるかもしれない。(P169)

すなわち、エンディングがある「ときめきメモリアル」は「物語」であるが、終わりがない「ラブプラス」は「物語」ではなく、「もう一つの人生だ」と定義されるのです。
「物語」の効能が「受け手に何らかの感情を起こすこと」だとすると「ときメモ」も「ラブプラス」も十分条件ではありますが、必要条件ではない。物語を「工学」するためには「物語」そのものを理解しなければならない、ということです。

物語を「工学」すること

巻末には「こうすれば物語が作れる!」と、さながらTRPGのシナリオ作成シートのようなフローチャートが付属されています。
しかしながら、フローチャートのとおりに物語を「作る」ことはできても、「面白い物語」を作れるかどうかはまた別の問題です。
もともと、「工学」とは、

工学(こうがく、engineering)は、科学、特に自然科学の知見を利用して、人間の利益となるような技術を開発し、製品・製法などを発明することを主な研究目的とする学問の総称である。
wikipediaより)

とあるとおり、「物語そのものを分解し元素を理解する」というよりも「物語を生成する方法」について研究するという意味合いが強いです。

歴史的に見ると工学は理学と相互に影響しながら発達してきたと言える。例えば、蒸気機関の効率についての研究から熱についての認識が深まっていった。熱についての理学的な研究が進められることによって冷却も可能になったと言える。
工学も大半の分野では理学の分野である数学・物理学・化学等々を基礎とするが、工学と理学の相違点は、ある現象を目の前にしたとき、理学は「なぜそのようになるのか」という現象そのものに対する理解を追求するのに対して、工学は「どうしたら目指す成果に結び付けられるか」という人間・社会で利用されることに対する合目的性を追求する点である。(同)

新城カズマは本書の成立について、「PBMのリアクションを自動化できる方法はないか考えたときに浮かんだ理論をもとにした」*2と語っていましたが、合理的に「物語を生成する」ための手法が、「物語をキャラクター化し、類型化する」という本書の手法に行き着いたのであろうと思われますし、技術は世相の反映である以上、現代の「キャラクター偏重主義」が本書に影響を与えているという論を否定することはまた不可能かと思われます。
「工学」によってシステマチックに生み出された物語をどう受け取るか。それは、受け手がどのように物語を「消化」するかにもかかわってくるでしょう。

物語論と対になるのは

「物語」の受け手は、どのように物語を受け取るのか。
悲しい映画を見て泣く。面白い漫画を読んで笑う。いわゆる感情の想起を生む手段として物語を「消費」する受け手。
この場合、コンテンツから感情を想起させるというより、感情の想起を目的とした「物語」を選択するでしょうし、「泣ける」物語の「泣ける」部分を抽出・増幅した形で「受け取る」でしょう。
一方で、コンテンツを何らかの形で「消化」しようとする受け手もいます。この場合は「物語」の構造を理解し、吸収しようと「受け取り」ます。
いずれの手法も否定されるものではありませんし、単純な二元論でもありません。
しかしながら、「感情を得るために物語を消費する」受け手においては、しばしば「似たような物語」の代用を受け入れます。「難病もの」と呼ばれる悲劇の物語が題材を変えながら繰り返し好まれることや、「同じようなストーリー」を「あえて」受け入れ、消費する。
これは、受け手が物語に接する「頻度」にも関連すると思うのですが、月に10冊も本を読む人と年に1冊しか読まない人では当然「物語」に対する認識が異なっています。前者が「あー、またこの内容だよ」と思う物語でも後者にとっては新鮮であり、シチュエーションを多少変えるだけで受け手にとって「新しい」物語になるわけです。
そうなってくると、まさに「物語工学」が必要となってくるわけで、技法をふまえデティールを変えるだけでまさに無限に「物語」を生み出すことができるわけです。
「物語工学論」を補填する要素としては「読者論」が必須となってくるでしょうし、おそらく今回の「入門篇」で語りきれなかった要素として何らかの形で発表されることと思います。



物語をどう受け取るか、という問いに対しては、それこそ「受け手の数だけ」解答があると思います。
実際、同一の物語を読んでも「キャラ萌え」「ガジェット萌え」「ストーリー萌え」「カップリング萌え」など受け手によって様々な受け取られ方をされる、すなわち「同じ物語を読みながら違う世界にいる」状態は不可避と言えましょう。
しかしながら、「物語とは何か」を問う「物語理学」と、「どのような物語を生み出すか」という「物語工学」を突き詰めることで、いずれは「受け手のニーズを充足させる物語の自動生成」という技術が完成されるかもしれません。
その場合、「作者=物語の生み手」はどうなっていくのか、「読者=物語の受け手」はどうなっていくのか、また「読者同士のコミュニケーション」はどうなっていくのか、という「物語を取り巻く環境の変化」についても深く考える必要があると思います。
著者・新城カズマGoogleの発達により著作権の変化に伴う「社会の変化」について思考実験さながらに様々な意見を述べていますが、この「物語工学論」もその論の一端であることは確かでしょうし、また、「この時代」の「物語」を映す石碑的な位置づけにあると思います。

今後、この「Tweegle(=Twitter+Google)時代が続いた場合、物語はどのように変わるだろうか。(P182)

学術書」として、また「新城カズマの作品」として、はたまた世相を反映した「記録書」として、様々な形で「読者=受け手」に受け取っていただけたらと思いますし、本講義がその理解や消化の一端となれば望外の喜びです。
というわけで、長時間の講義をご清聴いただき、誠にありがとうございました。
また不定期に現れるかもしれませんが、どうぞよしなによろしくお願いいたします(ぺこり)。
キーンコーンカーンコーン

*1:要会員登録

*2:10/10京都SFコンベンションにて