『十三番目の陪審員』(芦辺拓/創元推理文庫)

十三番目の陪審員 (創元推理文庫)

十三番目の陪審員 (創元推理文庫)

 タイトルのとおり陪審制を扱った法廷ミステリです。もっとも、本作が最初に単行本で刊行されたのは1998年のことです。なので、2009年から施行される裁判員制度ではなく、架空の陪審法に基づいた審理が行なわれているので、そこは気をつけていただかなくてはいけません(裁判員制度に興味のある方には同作者の『裁判員法廷』がオススメです)。早くから「市民の裁判への参加」という問題点に着目し、それを本格ミステリとしての作品に仕立て上げた慧眼と手腕には感服です。
 冤罪を扱った法廷ミステリでは、裁判という制度を利用することで真犯人がその罪を逃れ、無実の人間に罪が着せられ、ときに処刑されることになります。つまり、司法制度を利用した一種の倒叙ものめいた側面が法廷ミステリにはあります*1。本書では、発端となる「冤罪計画」、すなわり架空の殺人事件を演出し、その容疑者として冤罪の実態を取材する計画によって、冤罪という目標が最初に明示されるために、そうした法廷ミステリの倒叙性が如実なものになっているのが大きな特徴のひとつだといえるでしょう。
 「冤罪計画」の”容疑者”であり、本書の被害者である鷹見瞭一に施されてた(実際には罠にかけられた)トリックはDNA検査を欺く科学トリックです。これは確かに複雑で、お世辞にも出来の良いトリックとは言い難いのですが、しかしながら、本作の場合には必ずしも瑕疵とは言い難いのも確かです。なぜなら、人物を同定するための手法として血液型や指紋よりもDNA検査が信頼されつつありますから、実際の裁判でもDNA検査が重要な証拠として提出される可能性は非常に高いです。ですが、DNA検査の信頼性というのは極めて専門性の高いものです。他に証言や物証が乏しい事件であればあるほど、DNA検査がものを言う場面となりますが、果たしてそこにどれたけの根拠を認めればよいものなのでしょうか。
 法廷ミステリが他のミステリと大きく異なるのは、有罪無罪の判断の基礎となる証拠に制約があることです。陪審員が事実認定の判断を行なう上で根拠とすべきは法廷に提出された証拠のみです。仮に提出されたものであっても、伝聞証拠と呼ばれるものは排除されますし、不当な方法で入手された証拠も証拠能力を否定されます。読者の前にすべての証拠が出揃っているか否かがミステリにおけるフェア・アンフェアの判断基準ですが、法廷ミステリの場合には、その証拠が正当な方法によって入手・提出されたものか否か、証拠として扱うに値するか否か、といった証拠としての正当性・相当性にも制約が課せられます。ここが法廷もの独自の面白さであり難しさでもあります。
 本書は、弁護士・森江春作を探偵役としたシリーズものとしての一面を持つ一方で、法廷もの、いや陪審制を扱ったものとして、その解決と探偵役としての役割を陪審員の手に委ねています。というより、テーマ的に委ねざるを得ません。なので、森江としても賭けに出ざるを得ないのですが、検察側と弁護側の双方の主張が終わった後、陪審員の評決が下されるまでの間(ま)は「読者への挑戦」を思わせるものがありますし、本作はそのように構成されています。本作のDNA検査という些事よりも重要な大仕掛けは、陪審制といった制度の根幹に関わるものということもあり、森江の最終弁論が目先の事件から離れた政治的なものになってしまっているのが玉に瑕ではありますが、有罪無罪を決定する最終段階での苦境を構築するまでのロジックと、それを打開する方法の見事さには感心させられました。
 テーマとしても手法としても陪審裁判という制度が存分に生かされています。2009年から施行される裁判員制度と比べると異なる点はありますが、「市民の裁判への参加」を考えるにおいて格好の作品であると同時に異色の本格ミステリとしても傑作だと思います。本筋とは関係のない政治臭が少々強すぎるのが難点ではありますが*2、広くオススメしたい一冊です。

 なお、本書のあとがきでは日本の陪審制を扱ったミステリがいくつか紹介されているのですが、その中に、和久峻三『陪審15号法廷』が挙がっていなかったのは少々残念なので、こそっと補足させていただきます(笑)。

*1:倒叙ミステリと法廷ミステリの関係については、いつか本腰を入れた記事を書きたいと思っています。

*2:例えば、「お上の言い分に盲従するな」という主張自体は十分に頷けるものではありますが、原子炉事故の民事事件の判決を引き合いに出すのはいささか筋が悪いと思います。