『ディフェンス』(ウラジミール・ナボコフ/河出書房新社)

ディフェンス

ディフェンス

 やっぱり、だんだんだんだん自分を追い詰めて、どんどんどんどん高い世界に登りつめていけばいくほど、心がついていかなくて、いわゆる狂気の世界に近づいていくということがあると思うんです。一度そういう世界に行ってしまったら、もう戻ってくることはできないじゃないですか。入口はあるけど出口がないということがあるんです。そういうことに対してやっぱり多少、抵抗感みたいなものがあるのかな、と思ってますけどね。
(『対局する言葉 羽生+ジョイス』p28より)

 「人生は一局の将棋なり」といいますが、本書は人生というものを一局のチェスになぞらえた物語です。主人公のルージンは、子供の頃に手品と出会います。彼は手品を演じることに不思議な快感を覚えますが、その一方で手品のタネである複雑な仕掛けの数々にストレスを感じます。
 単純にして調和のとれた秘密。それこそが彼の求めるものです。彼は数学の幾何学やジグソーパズルに興味を持ち、そしてついにチェスと出会います。ルージンがルージンとしての自我を持ちチェスに触れるまでの過程は、まさに序盤戦(オープニング)のディフェンス(駒組み)を彷彿とさせます。手品と数学とジグソーパズル。相手を驚かせる喜び、幾何学の不思議、ジグソーパズルの完全情報性。そうしたものがチェスには詰まっています。
 神童として注目されてから先の、チェスの名人として登りつめる過程が直接は描かれていないところが面白いです。ルージンの父親は小説家なのですが、彼が自分の息子をモデルにして書いたチェス小説のプロットが語られることで、間接的にルージンの生き方も語られます。それは非常におぼろげで危うくて儚いものです。
 ルージンとフィアンセとの出会い。本書において非常に重要な位置を占める人物でありながら、この女性の名前が明かされることはありません。誰よりも大事な人でありながら抽象性が維持された存在として読者に提示されるその姿は、ルージンにとって、ひいては本書にとって何よりも重要なテーマであるチェスと比肩し得る人物とするために、あえて名前が奪わているのだと考えられます。
 本書は徹頭徹尾チェスを描いた小説ではありますが、具体的な駒の動きが説明されることは一切ありません。また、対局中のルージンの思考が描写される場面もわずかに一回しかありません。しかしながら、そのたった一回きりの描写には圧倒的な迫力があります。
 チェスというゲームになぞらえて描かれた本書の筋立ての一手一手。チェスの世界を現実の世界とみなしていた彼が、チェスの世界を失うことで現実の世界を現実のものとして受け入れることができるようになりますが、その現実の世界の中にチェスのコンビネーション(手筋)を見い出してしまったとき、ルージンと物語の破滅へのコンビネーションも始まります。コンビネーションによる一連の駒の動きはもはや止めることができません。
 私自身の能力的に将棋>>(超えられない壁)>>チェスなので、恥ずかしながらチェスと将棋とを置換することで私は本書を読み解いていきました。しかし、本書の結末へのコンビネーションは、おそらくはチェスならではのもので、仮に将棋を題材にしていたらこうはならないのではないかと思います。将棋とチェスの大きな違いの一つに、持ち駒を使えるか否かというのがあります。将棋の場合には持ち駒が使えますので、終盤になっても盤上にはたくさんの駒があります。それに対してチェスでは持ち駒が使えません。そうなりますと、終盤では必然的に駒が少なくなり、盤上を虚無が支配することになります。また、将棋では引き分けがほとんどないのに対し、チェスではトップ棋士同士の対局となると引き分けによる決着が大半を占めるという違いも見逃すことができません。チェスのこうした性質が結末にダイレクトに現れているように私には思えてなりません。
 本書はチェスというものの抽象的なイメージを損なわないようにしつつ物語に仕立て上げた稀有な傑作ですが、その結果として、ルージンは孤高の天才となってしまいました。これだけ読むとチェスプレイヤーって人間関係が決定的に駄目な人ということになりかねませんが(笑)、実際にはチェスの思考法を政治家としても活かしていこうとするカスパロフのようなプレイヤーもいます(参考:『決定力を鍛える』)。カスパロフのように具象化することで伝わるチェスの魅力というものは確かにありますが、その一方で、それでは決して感得することのできない魅力というものもあります。そうしたものを伝えてくれる物語として、本書は非常に価値のある一冊だと思います。

対局する言葉―羽生+ジョイス (河出文庫)

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