『チーム・バチスタの栄光』(海堂尊/宝島社文庫)

チーム・バチスタの栄光(上) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 599)

チーム・バチスタの栄光(上) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 599)

チーム・バチスタの栄光(下) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 600)

チーム・バチスタの栄光(下) 「このミス」大賞シリーズ (宝島社文庫 600)

 第4回『このミス』大賞受賞作である本書は漫画化も映画化もされていますが、その人気作も原作である本書を読んで納得です。単に衆人環視の密室としてバチスタ手術を選んだというアイデア面だけの成功ではありません。しっかりしたテーマに魅力あるキャラクタ。それでいて読ませるストーリー。確かに話題になるはずです。医療現場という専門性が高いため設定なのでトリックやカタルシスといったミステリ的な面白さはいまいちです。ただ、ワトソン役である田口医師とその後に現れてロジックで現場をめちゃくちゃにしていく探偵役・白鳥の二人のやりとりや真相を隠蔽する心理的な密室などは、ミステリ的な着想として面白いと思いました。
 難しいことを考えずともスラスラと楽しく読めちゃう本書ですが、だからこそ以下に小難しいことをつらつらと書き並べてみました(笑)。
 刑法の原則にしたがえば、たとえ医療ための行為であったとしても、人の体にメスを入れることは傷害罪に当たります。それが犯罪として処罰されないのはそうした医師の行為が正当業務行為として例外的に違法性を阻却されるからであって、あくまでも原則的には傷害罪でその結果人を殺してしまったら傷害致死ということになります(参考:正当行為−Wikipedia)。しかし、そんな医者と患者の信頼関係を全否定するような考え方を前提としてたら医療なんて成り立ちません。ですから、お医者さんの治療行為というのは基本的には犯罪には当たりませんし、よっぽとの場合でない限り犯罪に問われることはありません。
 成功率がきわめて低い危険な手術の場合であっても例外ではありません。肥大した心臓を切り取って小さく作り直すバチスタ手術。平均成功率6割という数字は4割の可能性で患者が死亡することを意味しますが、人の行為によって死という結果が招来しても犯罪に問われることのない場所。それが医療の現場です。刑法の原則と例外とがひっくり返っている現実がここにはあります。もちろん、それには上述のとおりの理由があってのことではありますが、原則が引っ込み例外がまかり通っているために見過ごされてしまっている危険があるのもまた確かでしょう。そうした現代の医療が抱えている問題を軽妙なストーリーテリングで浮かび上がらせてくれるのが本書です。
 治療行為によって患者が死亡したらそれは広く医療事故として扱われます。その中で医師や病院の過失によるものは医療過誤として扱われることになります。とはいえ、事故も過誤も治療行為がなければそうした結果が生じなかったことは間違いないわけで因果関係があることは否定のしようがありません。そこで過失、すなわち注意すべき義務に反した行為があったか否かという判断はきわめて微妙な問題となります。優秀な医師であればこそ些細な落ち度であっても過失としての責めを感じてしまう反面、未熟な医師はその落ち度に気づかずに過失を意識することができない。そんなジレンマがあります。そこから抜け出すためには第三者のより客観的な評価に頼らざるを得ませんが、そうした体制は不十分なのが現状です。とにもかくにも、原則と例外の逆転現象があるため、医療事故は、事故→過失→故意、という順序で検討されることになります。そして、すでにお気づきかもしれませんが、この順序はいわゆる普通の殺人と思われる事件の場合とはまったく逆の順序だったりします。本書は、第一部が「ネガ」で第二部が「ポジ」という章題になっています。おそらくレントゲン写真を意識した章題だと思いますが、そうした判断構造が巧みに表現された構成だといえるでしょう。
(以下、小難しいモードのまま既読者限定で。)
 ちょっとネタばれになってしまいますが、バチスタ手術の執刀医である桐生恭一は緑内障を隠しながら手術を行っています。こうしたことが許されるのか否か。バチスタ手術はリスクの高い手術です。4割の死を意識しながらの行為。死んでしまうかもしれないけれどそれでも行う手術です。そうした意識は法律上の講学的には”未必の故意”に近いものがあります。一方、緑内障を抱えたままの手術は確かに危険かもしれないが自分はそのことによるミスは絶対に犯さない自信があるという意識。これは講学的には”認識ある過失”に近いです(参考:「未必の故意」と「認識ある過失」)。故意と過失。危険性が高いのはどちらでしょうか?
 桐生がなぜメスを置くべきか否か。「未必の故意」に加えて「認識ある過失」という二つのリスクが重なることによる危険度の上昇という現実的な理由を考えれば結論は明らかですが、しかし、リスクの高いギリギリの手術の現場では「未必の故意」と「認識ある過失」との境目はどんどんと曖昧なものになっていくはずです。ってゆーか、未必の故意(死なせてしまうかもしれない)から認識ある過失(自分なら大丈夫)へとモチベーションをシフトさせなくてはやっていけないでしょう。一線の医師がそうした過酷な状況の中で戦っていると思うからこそ、本書の犯人のような人物は本当に許すことはできません。できませんが、理屈としては分からなくもないのです。でも認めるわけにはいきません。だからこそ何とかしなきゃいけないな、と読者がそう思ってしまうだけの力が本書にはあります。
 まあ、つらつらと無駄に難しいことを書いてきちゃいましたが、それというのも本書は単に面白だけじゃなくて問題意識のしっかりした骨太な物語であるということを私なりの言葉で説明したかったがためです。とにもかくにもオススメです。
【関連】プチ書評 『ナイチンゲールの沈黙』