『王様殺人事件』(伊藤果・吉村達也/MYCOM将棋文庫SP)

詰め将棋というのは、余分な駒は使わないんでしょう
北村薫『街の灯』p252より)

 本書は、プロ棋士であり詰将棋作家(詰キスト)として知られる伊藤果七段が作った詰将棋を、ミステリ作家であり自身も詰キストである吉村達也が、小説における名探偵の解決風に解説をしていくという一風変わった趣向の詰将棋集です。
 もっとも、普通のミステリの場合は、犯人はどうやって被害者を殺害したのかという謎を解決するのですが、詰将棋の場合だと、用意されている問題についてどうっやって王様を殺すのか(=詰ますのか)というのが問題となりますから、読者的には名探偵というよりはアルセーヌ・ルパンみたいな怪盗になった気分で読まれる方も多いのではないかと思います(なお、推理小説のようにヒントから指し手を復元するパズルとして推理将棋というのがあります)。いずれにしても、詰将棋推理小説には共通点が多いので、どちらにも通じている方にはもとより、どちらかしか詳しくない方にとっても本書は十分楽しめると思います。
 かくいう私自身、ヘボではありますが将棋を趣味として嗜んではおりますけれど、詰将棋の方はさっぱりでして、指し将棋における読みの訓練の一環として簡単なものを片手間に解く程度の興味しかありません。こんなこというと将棋に詳しくない方には意外に思われるかもしれませんが、簡単なものならともかく、専門家によって作られる詰将棋はかなり独特なものでして、場合によっては指し将棋に精通している人ほど解くのが難しいというような変わった駒の活用を必要とするものがあったりします。だいたい、一局の指し将棋の平均手数がおおよそ110手前後だというのに、長手数の詰将棋になると900手以上といったそれを遙かに上回る手数のものもあったりします(本書にはそんな無茶なものは収録されてませんよー)。ここまでくると実戦的ではないというのもお分かりいただけるかと思います。
 詰将棋とミステリの共通点についてですが、まずその作り方における類似点が、本書第2章の対談「伊藤果×吉村達也 詰将棋を語る」で述べられています。すなわち、

伊藤 ところで、詰将棋の作り方には、駒を適当に並べてそこから始める正算式と、収束から逆算するやりかた、それに正算式と逆算式の中間といったタイプがありますが、ミステリーではどうなんですか。
吉村 これは詰将棋と同じで、作家によって違いますね。ミステリーでいう逆算式とは、書き出す前に結末までのすべての流れをカッチリ決めてしまうことでしょうか。私の場合は正算式のほうが多いです。

 詰将棋もミステリも、問題があって答えがあるという形式では共通していますので、始めから考えるか後から逆算するか、ということになるのでしょう。もしくは、その過程において試したい趣向(トリック)がある場合にはそこから始点と終点を定めていくということが考えられます。詰将棋にしろミステリにしろ、そうした中でどの段階・趣向に重きを置くかによって作風というものが自ずと生まれてくるのだと思います。
 また、詰将棋には必ず解答がなければいけません(=「不詰」の禁止)し、しかもその解答は一通りでなければならず(そうでない場合を「余詰」と言います)、余詰めがある場合にはその詰将棋の価値は大きく下がります。また、詰上がりの時点で攻め方の駒が余ったり配置図に無意味な駒があったりしてもいけません(これを駒余りと言います)。こうした不詰、余詰、駒余りという詰将棋における禁則は、ミステリにおいてもそのまま当て嵌まります。
 さらに、答えがあるからといってそれしか見えずに他の手を考えないでいると作者の真意がつかめないという場合があります。本書には全部で66の作品が収録されているのですが、例えばその中のひとつである12問目を見てみましょう。

 この詰将棋、初手の正解は▲1五飛なのですが、それで「解けた!」と思って次にいくのは早計に過ぎるというものです。同じようでも実戦的に▲1三飛車と離して打ったらどうなるでしょう。これでも一見すると同じく詰みのようですが、この場合には△1四歩と中合する手がありまして、それに対して▲1四同飛不成だと△2五玉、▲1四同飛成だと△1五歩▲同龍△2七玉は打不詰で詰みません。つまり、初手の▲1五飛はこれしかない限定打だったということになります(正解手順については本書をお買い求めの上お確かめ下さい・笑)。
 このように、正解手順以外のところに作者の工夫・作品の面白さが隠されている場合がありまして、これと同じことがミステリにおいても言えるときがあります。真相以外のレッドへリングや突拍子もない仮説の方が魅力的だったりすることはままありますし、それによって正解である真相もより一層引き立ちます。詰将棋は確かに正解を考えるパズルではあるのですが、その一方で正解不正解といったパズルとして以外のところに価値がある場合があります。つまり、詰将棋は「問題」であると同時に「作品」なのです。これと同じように、ミステリもまた「パズル」であると同時に「小説」でもあります。そうした両面の価値を読者に気付かせるために重大な役割を果すのが「解説」です。本書は従来の雑誌に掲載されているような定型の解説ではありません。吉村達也が推理作家としての腕前を存分に発揮して、作品の趣向や正解手順を分かり易くかつ面白く読者に伝えてくれています。
 詰将棋も広くみれば将棋の一種であることは間違いないので、幻想的なものから指し将棋に近い実戦的なものまで幅広いです。玉方1一香と2一桂を配した詰将棋を特に「実戦型」と呼びます。例えばこんな感じです。

(恥ずかしながら即席で自作してみました。)
このような実戦型について本書では面白いことが書かれています。

『実戦型ですから解図欲がわくでしょう』という言い回しは、あまりにも常套的に詰棋界で使われているが、それはやや既成概念に溺れすぎかもしれない。
 当探偵事務所の所長の場合、二十五年を超える捜査歴の中で、実戦型の王様殺人事件については、なかなか食指が動かないというのが正直なところである。なぜかといえば、理由は二つ。
 理由の1は、実戦型詰将棋は、見た目がヤワでも変化がめんどうであることが多い。理由の2は、イトウハタス関連の事件には当てはまらないが、世の中には実戦型であることだけを免罪符にした『退屈な事件』が山とあふれているからである。
(本書p33〜34より)

 これと同じことはミステリでも言えますね。リアリティを追求したものは結末の意外性や論理性の面白さが不足気味ですが、だからといって論理性や結末の意外性を追求したものを書くと、人によっては「リアリティがない」と敬遠されるわけです。じゃあどうしろっちゅうねん(笑)。ということで、最近のミステリには意外な結末や独特の論理を演出するために、架空社会を舞台としたいわゆるSFミステリ(参考:プチ書評『魔術師を探せ!』)と言われる作品があったりします。同じようなことは詰将棋の世界でもあります。すなわち、既存の駒の動きやルールには縛られないフェアリー詰将棋(参考:Wikipedia フェアリー詰将棋)というのがあります。ちょっと条件を変えてやるだけで新たな可能性が開けてくるのが面白いですね。
 また、詰将棋の中には、初形図や詰上がりが何らかの文字や形になっている「曲詰」と呼ばれるものがあります。この曲詰をミステリに例えると、マザーグースなどになぞらえて殺人事件が発生する「見立て殺人」などが該当することになるでしょうか。このように、詰将棋の趣向とミステリのトリックにも似たような関係があるといえるでしょう。
 なお、本書の最後の方では、同一作・類似作についてどのように考えていくかというかなり深刻な問題についても触れられています。これもやはりミステリでも同様の問題があるわけですが、ミステリの場合だと、オマージュやパスティーシュといった概念がかなり定着しています。アイデアに先例がある場合にはそれを前提として尊重した上で、それについていかに独自色を付け加えて傑作を作り出していくかという認識・風潮は書き手にも読み手にもかなり浸透していると思います(なお、念のため付言しておきますとアイデアには著作権は発生しません)。特にネットの発達によって情報の共有化が急速に進んだ現代では、まったくのオリジナルを主張するのは困難です。だからこそ、作る側にも鑑賞する側にもそのことを踏まえた上での作品の評価というものが求められるのでしょう。難しい問題だとは思いますが、詰将棋も伝統あるひとつの文化ですから、何とか発展していって欲しいと思います。
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